老い、老い | 山の声を聴け

老い、老い

 人間は60になっても、70になっても生殖に参加する男はいくらでもいる。そういうヒトは老年期に入ったとはいわないのだろうか。外見は、性の欲望を失った男と大差のない爺さんに見えても、老けこんだということをあまり感じさせないのだろう。だけど、いくらがんばったところで、欲望を充足させるエネルギーが衰えていることはまちがいない。
 女性の場合は閉経後に子を産むことはない。かといって性の衝動を失ったわけではないだろう。男も女も、50過ぎれば性愛からだんだん遠ざかるもので、恋愛感情を抱いたり情欲に傾くのは年甲斐もなく、滑稽だと考えるのがふつうだ。
 しかし、中村真一郎の『日本古典に見る性と愛』に教えられたのだが、日本の古代ではいまの通念では考えられない性愛の型があった。源氏物語はそういうさまざまな恋愛、情欲の型を描き出している。もっとも驚嘆するのは女性の恋愛年齢の幅の広さである。中村は、その幅の広さこそ文明の成熟度の高さを示しているという。60に近い宮廷女性が、貴族社会の花形である二人の十代の男性を同時に閨房(寝室)に迎え入れている例を取りあげて、「還暦を迎えてもまだ堂々と、彼女の孫たちと肩を並べて、恋愛戦線で戦っている。なんと高級な文明社会であろう」と。
 源氏よりさらに古い伊勢物語は、在原業平という実在の人物が主人公の歌物語である。業平は階級、年齢を問わず、さまざまな女性と関係する。実在といっても、その時代の恋愛や性愛の諸相を業平の行実に体現させているもので、当時のひとつの恋愛観を代表しているという。源氏がつくられた藤原時代と違って、伊勢の成立した時代は貴族階級が固定されてはおらず、民衆の伝説を吸収して、庶民の恋愛観をも含んでいる。
 業平はおのれの欲望のまま、帝の寵愛する女性と交わって流罪となったり、処女でなければならない斎宮と通じたり、白髪の老婆と交わっているのだ。いずれのエピソードも業平が非難されることはない。むしろ貴族の理想像としてその地位を獲得していく。「好色」の誕生である。
 老婆は立派な3人の息子があった。彼女は姓の衝動に駆られて男の肉体を欲した。二人の息子は黙っていたが、末の息子がその思いをかなえてやろうと、業平に依頼するのである。「けじめ見せぬ」好色の業平は、その老婆と交わるわけである。伊勢の作者はこの老婆の欲望を年甲斐のないという感じ方でとらえていない。
 現代の名のある歌人はある雑誌で、「無惨なまでに滑稽」「異様な振舞」と書いていた。近代の通念でとらえた見方だろう。
 老年期にはいったら、こういう欲望を昇華しなくてはいけないというのは湯川秀樹だ。

 あしたから週末は京都だ。つづきは来週。