男女の恋愛 | 山の声を聴け

男女の恋愛

 柳原白蓮や田村俊子、川上貞奴を少し書こうと思ったけれど、やめた。ネットで検索すれば、ある程度のことがわかるし、略歴はウィッキペディアにも書かれている。評伝もある。目新しいエピソードがあるわけでもないしね。
 長谷川時雨の「マダム貞奴」(『明治美人伝』)を読んでいて、「ん?」と思ったことがあった。
 時雨が貞奴の舞台に招待され、楽屋に訪ねていくと、このときすでに同居していた恋人の福沢桃介がいた。福沢諭吉の娘婿で、電力王といわれた実業家ある。まるで「飯事(ままごと)のように暮している新夫婦か、まだ夢のような恋をたのしんでいる情人同士のようであった」と時雨は感じた。
 時雨が見物席にもどってしばらくすると、後ろに桃介が来て、時雨に話しかける。「ねえ、僕が川上の世話を焼きすぎるといって心配したり、かれこれいうものがあるけれど、男は女に惚れているに限ると思うのです。これが男に惚れこんでごらんなさい。なかなか大変なことになる。印形も要る。名誉もかけなければならない。万が一のときは、俺は見そこなったのだなんていう事は逃口上にしかならない。一たん惚れたら全部でなければならないから――其処へゆくと女の望みは知れています。ダイヤモンド、着物、おつきあい、その上で家を買うぐらいなものだから」と。桃介は同性愛のことをいっていると俺は思った。
 時雨は、事業家の恋愛は妙な原則があるものだと感じると同時に、あべこべだと感じる。男同士が人物を見込んで結ばれた関係なんて、いまの世相から見て、命をかけたいわゆる武士道的な誓約はあろうはずがないから、物と社会上の位置とを失えば、それですんでしまう。男女の愛情はそうはゆかない。ダイヤモンドか、着物か、家ぐらいですむような、悲しい貧困なレベルにおかれた恋愛で満足している男女があるとすれば、実にお気の毒だ。全精神を打込んだ男女の恋愛のどん底は魂の交感であり、命の掴みあいである。死と生がそこにあるばかりで、何ものをもまじえることのできない絶対のものだ、と時雨はいうのだ。田村俊子や柳原白蓮、松井須磨子、ほかならぬ時雨自身も、そういう恋愛に身を投じたのだろう。
 だがやはり、桃介のいっているのは男色、同性愛であろう。女を見下しているような気配がある。案外時雨はそこをじゅうぶん承知して、いまどき武士道的な誓約なんて男同士の間にありはしないといっているのか。桃介がいう男同士というのは葉隠的な忍ぶ恋ともちがう。時雨は、桃介が「愛するもの」とはいわず、「惚れる」という普通軽くいいはなたれる言葉をつかったことに注意して、「そこに用意があるのかも知れない」という。どんな用意があるか知らんが、まあ、どうでもいいことか。全身全霊を込めた男女の恋愛を桃介は知らないと感じた時雨は、貞奴との関係をままごとのような恋だと思ったのだろう。