ブログネタ:お金と幸せ、比例する? 参加中
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お金と幸せは比例するか?
これまで生きてきた経緯や育つ環境などにも左右されるので人それぞれだとは思う。
けれど、僕自身の着地点は
お金は幸せになる為に必要な一つの要素ではあるが、
お金だけで満たされる幸せには限界があるとなる。
確かにお金はないよりかはあった方が何かと都合はいい。
だが、周囲から見れば、決して裕福ではないものの、
悠々自適に南の島等で暮らしている人達によく見られる、あの満たされ感はなんなのだろう?
逆に周囲から見れば、高層マンションや高級外車に乗り、高い料理に舌鼓を打つような
生活をしている人がふと陥る強迫感や孤独さはなんなのだろう?
人々のカウンセリングも生業にしている事もあって、こういう人々をよく見てきた。
お金持ちでありながらも常に眉間にしわを寄せながら歩く人もいる。
生き馬の目を引き抜くような世界にいる以上、一瞬たりとも気が抜けないのだそうだ。
高い給料を得て、それでも眉間にしわを寄せて生きていく。
ふと気を抜けば奈落の底に突き落とされる事もある。
これは幸せではない。
お金によって、幸せの一部を手に入れる事も出来る。
だが、お金が全てではない。
お金で得られる幸福感はほんの一部だ。
お金を使う者が価値ある使い方をすれば、それはいずれ価値ある結果を生み、
精神的なものにもいずれはつながるだろう。
だが、価値のない使い方をすれば、そこからは何も生み出さない。
お金は使うものだ。
お金に使われている人がよくいる。
そして、人生の価値をお金の有無で左右されている人も。
これではきっとお金がある事と幸せは比例どころか、
近似値に近づくことすら、きっとできない。
だから精神的な満足感があまりない世の中になった。
そういう点では僕らはまだまだお金に左右されている人が
多いって事なんだろう。
僕はそう思う。
僕はこの言葉が正直、好きではありません。
いつの頃からか、ポジティブシンキングで行こう!とか、
ポジティブシンキングでモノを考えよう!とか、そんな風潮。
この言葉で片づけられない問題にさえ、
この言葉を用いてくる人には幻滅しか感じません。
又、よくあるパターンとして、
この言葉を多用する人ほど、少しは反省しろ!と思う事が
多々あります。
同じ失敗を何度も繰り返しても、
この言葉で「気にしない気にしない」とでも言いたいのでしょう。
確かに何でもかんでもクヨクヨと考え込んで、
にっちもさっちもいかないところまで
迷い込んでしまうネガティブシンキングに陥る事は避けたい。
「なんとかなるさ!」
そんな風に常に考えられたらどんなに楽だろう。
だけど、世の中、そううまくいかないものなのだ。
又、度を越えないネガティブシンキングは
実はそれほど、悪い事ではない。
何でもかんでもポジティブシンキングな人よりも、ずっといい。
僕の周囲にも、
大企業・中小企業の社長さんや個人事業主やカウンセラー、
コンサルタントなどなど、多様にわたる人々がいる。
が、堅実に成功を収めている人となると、
楽観主義的にはモノを考えない人の方が圧倒的に多い。
では、何故、
ネガティブシンキングがそう悪い事ではないのだろうか。
例えば、東日本大震災で端を発した原発問題。
地震が起きるまで原子力発電や原子力発電所は
安全でクリーン・コスト安・大地震にも対応し得る、などの
ポジティブさが前面に押し出されていたよね。
だが、想定外の事が起きた。
結果として今がある。
これがもし、もしだ、
多少なりとものネガティブシンキングで話を進めていたならば、
原子力発電所の多くが海沿いであるという状態も
避けられたかもしれない。
仮に海沿いとしても、
より高い防波堤を用意していたかもしれない。
安全神話に胡坐をかく事はなかったかもしれない。
原子力エネルギーに頼り過ぎな状況でなかったかもしれないのだ。
こう考えると、
物事を肯定的に考えるポジティブシンキングでは
見えてこないモノがある一方で
石橋をたたいて渡るではないが、
ネガティブシンキングの方が視野が広がる。
視野が広がる事で
ポジティブシンキングの時以上に考えるべき事も増えるし、
コストも増加する事も大いにある。
勿論、とりこし苦労になる事だってある。
だが、実際に問題が起きた時に対策を立てていて、
良かったという事につながるのは
間違いなく、ネガティブシンキングの方である。
結果的に思うのだが、
ネガティブシンキングという表現が良くないだけで、
これを
「リスク管理」或いは「リスクマネジメント」という言葉に
置き換えてみると、どうだろうか?
リスクは犯さねばならない時もある。
だが、犯すべきリスク以外を背負う事はない。
それを見極めようとする事、
それがリスク管理だとして、
誰がリスク管理が悪いと思うだろうか?
物事や動静に疑問をもって、
慎重に考えて、石橋を叩いて渡る準備をする。
その事の方が
「気にしない気にしない」の
バカなポジティブシンキングの人々よりも何十倍もマシである。
又、ネガティブシンキングでモノを考える人は実際のところ、
自分自身の実力というものをよく知っていて、
非常に謙虚でもある。
過分に自らの実力を卑下する必要はないが、
逆に過分に尊大に見せる必要もないのだ。
とおり一辺倒のポジティブシンキングを卒業し、
ネガティブ・・・・、ならぬ、
リスクマネジメントをぜひ推奨する世の中になってほしいものだ。
免罪符。
いわば、罪の免除証書とでも言ったところか。
普段ぼくはあまりテレビを存分に見るような生活をしていない。
又、あまりにも馬鹿げた番組を見るよりかは
色々と考える事を考える時間に充てたい。
そんなこんなもあってテレビは音は出さずに、
視線の端の方で動いているような状況になっている事が多い。
が、
水曜深夜に時間があるとみるテレビがある。
『マツコ&有吉の怒り新党』というトーク番組だ。
一般視聴者からの日常の疑問や怒りに関して、
二人がコメントするのだが、
言いたい事を言う二人であるだけに色々と気付く事もある。
又、様々な価値観を知ることもできる。
おとといの水曜。
時間もあったし、
鬱積している今の状況から逃げ出したくなる感もあって、
その番組を見ていたのだが
家族連れなどでにぎわう回転寿司屋に訪れた、
投稿者が、とある男性について、
怒り心頭だった話には大いに拍手喝采な気分だった。
回転寿司屋で女性の子供がはしゃぎまわっていた。
それを見た男性は怒鳴る等ではなく、
穏やかに諭すように注意した。
それが投稿者は気に入らないのだという。
投稿者は、そう子供の親だ。
よくある光景だよね。
静かに食したいのなら回転寿司屋に来るな!というのだ。
子供だから仕方ないというのだ。
まるで免罪符。
子供がいれば、多少は騒ぐことは仕方ないでしょと言わんばかり。
子供がいれば、許されると思うがのごとく。
子供がいれば、偉いのだと言わんばかり。
マツコ・デラックスはこうはねつけた。
回転寿司屋だから、騒いでいいと勝手に決めんなと。
むしろ騒がないように
親として子供にしつける位の姿勢はないのかと。
そんな姿勢がないのなら、外に出すな!と。
外に出すなとは言い過ぎかもしれないが、
僕も同じように思う。
公共の場で騒げば、
周囲に迷惑がかかるのは誰が見ても明らかだ。
それを勝手な家族の論理で騒いでもいいというように
決めつけること自体、浅はか極まりない。
実はこの世の中、
勝手に自分で免罪符を持ち歩いている人が案外多い。
上記の家族連れしかり、酔っぱらいや痴漢しかり、
老年を迎えた人々の電車の席に関するマナーの低さや
若年層への恫喝しかり。
妊婦さんが持つキーホルダーを
妊娠していないのに悪用するものしかり。
仕事や夢にかこつける男性・女性もそうだ。
家族連れは自分たちの論理で
回転寿司屋を騒いでもいいと決めつけた。
酔っぱらいの街中での行動は
お酒に任せて、仕方ないという気持ちがないとは思えない。
痴漢だって、
あんな服を着ていた女性が悪い等という典型例もある。
優先席は老年の人用ではなく、
何らかの不自由さを抱える人用であるにも関わらず、
横柄で不遜な老年は多い。
ぐあいが悪いんです!と言われ、
席を替わってみるも、携帯をいじりつつ、
音楽をヘッドホンで聞く始末など、妊婦キーホルダーの悪用もある。
仕事や夢を語るのも追いかけるのも自由だが、
それですべてが許されるわけでもない。
そして。
あえて付け加えるのなら、
そうやって自分で作り上げた免罪符のその殆どは
自分たちの限られた世界でしか通用しない言い訳の類に等しく、
又、それを他人にも当てはめようとすると恐ろしく、
上記のように醜い投稿を生む。
人間の醜さを露呈する。
この世の中に自分にとって都合のいい免罪符など、
ありはしないのだ。