めずらしく一日二回目のポストだよ。

神田駅前日高屋にて。




 

いえ、なんで二回目ポストかって、文学部ぶんがくぶ文学部とさわいでいたくせに、サムさんのエントリーで解釈まちがいをやっちゃったものですので。。

 


これの最後の部分。




 

そらちゃんとガンプくんが(それぞれ)幸せになれるよう~


を、


そらちゃんとガンプくんが(二人で)幸せになれるよう~


と、読んでしまったのが自分。

 



(そんな読み方をしてしまったばかりに貰い事故的に巻き込んでしまったそらさんにはほんと申し訳ありませぬ。)


(尚、当エントリーにそらさんと自分の関係はどーなってんの的な、ゴシップネタを求められる方がいたとすれば、ご期待に沿えないことをあらかじめ申し上げておきます。)

 


 


文章解釈の話です。

 


なぜ上のサムさんの文章を(二人で)と、読んだかというと、

当事者にしか分からない布石からの文脈が絡んでおるのです。



KNDカラオケのときにサムさんが悪い顔をしながら、"二人付き合っちゃえ"みたいな感じの煽りをしてきていたシーンがありw


その後もことあるごとに、(いつものごとく飲み過ぎで)あんまり覚えていないけど今週火曜の新横アフターでも、たぶん。


 

学士で終わった身なのでそこまで専門的なことはいえないのではありますが、

文学作品の解釈って、その瞬間目の前にある文面だけじゃなく、

書き手の出自、思想、生活環境etc.などの背景要素を絡めながら読み進める、

というような作業を行っていた記憶があります。



まあここまでぜんぶ、サムさんのエントリーを読み間違えた言い訳なんですけどw



 

極端な事をいうとじぶんが文学を学んでいた学校の、講義なりゼミっぽいやつでは、


「解釈が正解かどうかよりも、解釈が面白いかどうかの方に重きが置かれる」


という印象でした。

 

 


たとえばこういうの。

 

「トムとジェリー」を例に、文学の解釈ということについて

 

 

「トムとジェリー」自体に風刺なり思想なりの背景はないのに、見る側の妄想で盛りに盛られた解釈が出回ってまことしやかに信じられるようになった例。

 


取り上げているブログ主さんは、単純ストーリーだと思っていたトムとジェリーの社会風刺性を聞いたときにガッカリしたようですが、

僕なんかは逆に社会風刺性があってくれたほうが面白いなって感じました。 

 

 


だから、ちまきさんのブログの中で取り上げられているキクチさんの「解釈は一つじゃない」ってことばが、
自分も文学部だからわからんけどしっくりくる。


理系のちまきさんからすると???な感じだとは思うんですけど。



そもそも文学ってたぶん正解を求めていない、もしくは求めている風を装っているか、自意識をゴリ押そうとしているか。


いずれにせよ、作品もその解釈も、「面白いかどうか」っていう、時代とかで変わる普遍的じゃない、すんごく大雑把な価値感に支えられている。


例えば村上春樹とかはなんかのエッセーで「自分が書いたものを自分で1から10まで説明できたとしたら、その小説は価値のないもの。」みたいに言っていたのを覚えているんですけど。

作品も、解釈も、当事者から離れて自由に思いもよらない方向に飛んで行きたがっているのかもしれない。

書き手がどんなに人間性がクズでも、作品さえ面白かったら評価される。



とりあえず文学ってものに対しては、なんだか実体のよく分からんフワフワした学問だなー、って印象のまま、僕は文学部英文学専修を卒業しました。




で、しばらくそういう解釈だのなんだのから遠ざかっていたのですが、たぶんそういうのを呼び起こしてくれたのがマラソンブログ。


「文学性」っていう御大層なもんが当てはまるかどうかは分かりませんけど、文章あるところに解釈ってのはセットで存在しますもんね。

むしろ素人文章のがブレていて読みごたえがあったりもするw



今日はそんな、いまの自分をワクワクさせてくれる文章を書く人たちとの飲み会があります。

自分いがいの5人中4人は、自分が個人的に筆師匠と仰いでいる人たち。
(実際イツカさんがいたらパーフェクトだった)


さいご幻のシックスマンは、あとにも先にも唯一自分がマラソンブログを読んでいて涙したシーンの主役。



ワクワクしない、わけがありません♪

っていうあげあげテンション、稚拙性をむしして勢いのままにポスト。

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