母の日は過ぎたけど | 鹿児島セラピスト目指し中えむのブログ

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プロセラピスト(カウンセラー)目指してます。鹿児島在住、自分らしく生きたいとやっと目覚めた50代。
学ぶなかでの気づき、日常のなかでのひらめき、ただの思いつき、迷い楽しみ心のままに書いてます。

おはようございます。
日曜日は母の日でしたね。その日は、気が向かなかったので、翌日墓参に。久しぶりでした。最近は出かけるのも、そんなに苦ではなくなりました。出不精は変わりませんけど。
わたしは亡くなった存在には関心なくて。墓参はしっかり者の身内にまかせてばかり。それで困ることもないし。
でも、たまの節目に墓参するのは、わたしの中の両親に会う為かな。で、そのまたご先祖様や、ひいては、この世界の全てに感謝を。もちろん普段からそんな意識でいますけど、あらためて、心に刻む感じでしょうか。オリエンタルという白い百合を手向けました。
ところで、自分を知る上で両親との関係を見つめることは必須です。わたしの場合、価値ある存在としてあつかわれてなかった。それがずーっと尾をひいてました。
父は世間で言うところの立派な職業で、母はそれを支える強い人でした。経済的には不自由なく、愛情も十分感じて育った(ただ父は家庭をかえりみない人でした。家庭内のバランスはよくなかったかなー)。だから彼らの保護の元にある時期は守られていました。けど、いつも彼らの価値観を押しつけられ、わたし自身もそこに甘えていたので、自分の生き方をみつけるまでそうとうの時間がかかった。
元来素直じゃなくてプライドだけはあり、頑固だし始末に負えない性質なもんで。で、意外に真面目で根性はあるし、何でもない顔して、無理もして、具合も悪くなって、悩んで、迷いまくって、やっとただの存在としての自分の価値を自分で認められた。あー、遠かった。
でも、やっぱりここまで来て思うのは、この感覚を掴む為のあの両親との関わり。その宇宙の計らいに心から感謝。もちろん、両親が注いでくれた大いなる愛情には、言葉にならない、涙がこぼれるほどのありがとう。です。
(たぶん彼らもただの存在としての自分自身の価値は、亡くなる直前まで知らなかったことでしょう。モノや社会的立場でしか、自らの価値を見いだせないまま生きたのでしょう。そんな時代だったのだろうし、彼らも苦しんで、耐えて生ききったのだと今なら思えます。)
それにしても、スピリチュアル的な霊?とか、そういう関係はどうも、ピンとこないんですよねー。神の声とか聴いてみたい…。
今日もいい一日を。ありがとうございます。