最終日の僕は日本に帰りたくない気持ちで一杯だった。しかし、帰ってすぐに撮影が待っていたので、それを無視する訳にもいかないし、みんなと帰らなくてはいけない理由もないが、僕が持っている常識的な観念が帰国を決めてしまった。飛行機の中でパリのことが頭から離れなかった。いつか、またこの地で自分の写真を発表したい願望は現在でも強くある。現に僕の日本の名前は「巴亜久」これでparkとしたぐらいに、名前に巴里「パリ」の「巴」と亜細亜「アジア」の「亜」を組み合わせた名前を付けたぐらいに本気だった。日本に着くと、僕の撮影の頻度は以前にも増して多くなり、スタジオマンとしての仕事は、DJとトイレ掃除位になって、3Fの踊り場で撮影後の写真のセレクトのためにザスタジオにいることが普通になっていった。スタジオマン生活も2年近くになると、やはり飽きてくる。しかし実質はほとんど撮影していたから、特別嫌な気分にもならず、流行通信のおかげで外からのお仕事も増え人間的なお付き合いもだいぶ普通にこなせるようになって来た。僕の置かれた環境は、毎日誰かが食事とお酒をおごってくれる、夢のような毎日の繰り返しだった。普段の僕はまじめに見せかけていたが、中身は不真面目で調子に乗っていた。そんな時に戒めてくれたのが、imageの赤坂さん.いい加減な僕の話をスタッフが帰った後でも居残りしてくれて色々な相談にいつも乗ってくれたり時には母親のように厳しく接してくれた。imageで遊んでるうちに当時新人の同期の馬淵君「今はシグノの社長」とも仲良くなり将来の夢を語った。そんな環境が僕を、よりプロフェッショナルな気分をもりあげてくれた。そして、ファッション関係の人が入れ替わり出入りしているところで新しい出会いや、仕事がまたそこで生まれた。もちろん外人のモデルさんとの作品撮りや、クラブに遊びにいくことも忘れなかった.こうして僕の残り半年間のスタジオマン生活はより濃く、スピードも増して過ぎていった。社会勉強は毎日夜の時間に集中して行われ、日増しに僕は日本人的な考え方と作法を身につけていった。