ジャンヌダルクとモンサンミッシェル6 完結編 | 世界遺産モンサンミッシェル

世界遺産モンサンミッシェル

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Bonjour ヒヨコ

皆様、こんにちは。
9月に入り、青空に浮かぶ白い雲も、
すっかり秋の気配です。

さて、今日はさっそく、ジャンヌダルクについて
書いていきたいと思います。
いつも雑談で長くなってすみませんてへぺろ


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時は、1424年頃~

ジャンヌはお散歩中に「お告げ」を耳にします。
「イングランド軍を倒して、王太子をランスへ導くのだ」

ジャンヌは素直な女の子。
「大天使ミカエル」「聖カトリーヌ」「聖マルグリット」

幻視を信じ、16歳になったジャンヌは、
フランスを救うために、いざ、旅立ったのです。

(3回もお告げを受けたのに信じなかった司教様もいましたが・・てへぺろ


戦地へ赴いたジャンヌではありましたが、
若い少女が話すことを信じる人はいません。
冷たくあしらわれても、嘲笑をもって追い返されても
ジャンヌの決心は揺らぎませんでした。
シャルル7世に会わせて欲しいと!

あきらめず、幾度かの戦地訪問を繰り返し、
ジャンヌは、
「オルレアン近郊にてフランス軍が敗北する」
という驚愕の予言をするのです。

雷

予言的中

雷

この後、ジャンヌは内密に王太子シャルル7世の王宮
があるシノンへ向かうこと許されました。

ジャンヌ、シャルル7世とご対面。

お告げによるジャンヌの使命は、

このシャルル7世をフランスの王に就かせること。
その戴冠式が行われるランスへ王太子シャルル7世を導くこと。
ランスまでは結構険しい道のりなんです。

第一印象、シャルル7世は、ジャンヌから強い印象を受けたという。
ジャンヌは、軍と同行することを願い出る。
ジャンヌは軍備一式を与えられた。

一介の村の少女であるジャンヌが、こうした待遇に恵まれたことは、
当時、フランスの度重なる屈辱的な敗戦が背景としてあり、
ありとあらゆる軍事的試みが失敗に終わり、
後がない状況でのジャンヌの登場だっただけに、
神の声を聞いた少女へのわずかな期待があったのだろう。

一方で、「神のお告げ」の信憑世を疑う声もあり、
ジャンヌを魔女扱いするものもいた。

そんな中、ジャンヌはオルレアンに到着。
戦いに参戦したジャンヌは、剣こそ持たなかったものの、
旗手として兵士の士気を鼓舞する役割を果たす。

ジャンヌは、八日間で、ロワール川に陣取っていた
イングランド軍を打ち破り、完全に駆逐することに成功しました。

ジャンヌは、イングランド軍からオルレアンを解放し、
次々に占領されていた領土を奪還していきました。
この頃には、ジャンヌを信じていなかった指揮官たちも
ジャンヌの立案するあらゆる作戦を承認していました。
ある上官は、ジャンヌの予言により、
自らの命を救われた人もいました。

4月29日にオルレアン入りしてから2ヶ月後、
戦いの形勢は一変していました。

6月29日、フランス軍はランスへ向けて進軍を開始、
一方で、フランス領を占領していたブルゴーニュ公に
条件付き降伏を求めました。

ランスへの進軍路にあった各都市も抵抗することなく、
フランスへの忠誠を誓い、シャルル7世はフランスの領土を
回復していきました。トロワ条約の締結地、トロワも
4日間の包囲の末、降伏、戦いは順調に進み・・

7月16日、ついにランスへ到着!
翌17日には、シャルル7世の戴冠式が執り行われました。

ジャンヌ!ミッション完了!

しかし、まだ、パリはイングランドに占領されていました。
ジャンヌはパリへ進軍することを主張、
一方、シャルル7世は、ブルゴーニュ公との和平条約を優先したい!

案の定、シャルル7世はブルゴーニュ公との和平交渉に
失敗!
その後パリへ向かいました。

8月15日、ついにパリでイングランド軍と対峙。
9月8日フランス軍、攻撃開始。

ジャンヌはこの間、弓矢に当たり足を負傷しながらも、
最後まで軍の指揮を執り続けました。

ところが・・・9月9日、
ジャンヌは、シャルル7世から撤退命令を受ける・・

これがシャルル7世の戴冠後の歴史的大失態と言われているようです。

この後、作戦が失敗したり、うまくいったり、
フランス軍はかつての勢いを失いつつありました。

1430年、5月
ブルゴーニュ公国を攻撃、あろうことか
ジャンヌはブルゴーニュ公国の捕虜となってしまいます。

このあとからは、ジャンヌの悲しい物語。

通常なら、身代金を払ってもらって解放されるはずのジャンヌ。
しかし、シャルル7世はジャンヌを見殺しにしたのです。

フランスから見放されたジャンヌは幾度か脱走を試みるも、
失敗。

最終的には、敵であったはずのイングランドが
ブルゴーニュ公に身代金を払い、ジャンヌの身柄を引き取りました。

イングランドにとって、ジャンヌは、
シャルル7世の戴冠に力を貸した憎き人物。

当時、イギリスの占領統治府が置かれていたルーアンで
ジャンヌの異端審問裁判が開始されました。
しかし、その裁判は通常のものではなく、
ジャンヌを悪者にするためのものでした。

弁護士をつける権利さえ与えられず、
裁判に関わる人はすべて、
イングランドやブルゴーニュの息のかかった人たち。
証言は改ざんされ、要求はすべて却下されました。

ジャンヌは文盲だったため、
自身が署名した書類については理解していなかった、
と言われています。

いろいろな「こじつけ」を経て、
ジャンヌは判決を受けます。
どのような判決かは、皆様、もうご存知ですよね・・

1431年5月30日、
ルーアンにて、ジャンヌの刑は執行されました。

このときの様子が、
オルレアンの大聖堂のステンドグラスに描かれています。

フランスのために戦い、フランスに見捨てられたジャンヌ。
彼女の死後も、22年にわたり、百年戦争は続きました。

その後は、フランス優位に戦いが進みました。
1449年、フランスはジャンヌの最後の地、ルーアンを奪還、
翌年5月、ここ、モンサンミッシェルがある
ノルマンディー地方も制圧しました。
(だからここは今、フランス、なんです)

シャルル7世は、イングランド軍に隙を与えず、
アキテーヌへも攻め入り、

1453年10月19日、
ボルドーを奪還、

百年戦争は終息を迎えました。

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百年戦争終結後、ジャンヌの復権裁判が開かれました。

1456年7月7日、
復権裁判法廷は、ジャンヌの無罪を宣告。

1920年5月6日、
ローマ教皇ベネディクト15世が、
ジャンヌを列聖、
こうして、ジャンヌダルクはローマカトリック教会における
もっとも有名な聖人の一人となりました。。。

聖人たちからのお告げにより、
フランスのために戦ったジャンヌ・ダルク

裏切りとも呼べる非情なフランス王の仕打ち、
しかしながら、最後は
自らが

「聖人」

となる数奇運命をたどりました。
いや、今もなお、
彼女の人生は終わっていないかもしれません。

ここ、モンサンミッシェルのサンピエール教会で、
オルレアンの街で、
今も活躍しています。

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終わりに

長い長いブログですみませんでした。

ジャンヌダルクとモンサンミッシェル、

結論からいいますと、
ジャンヌは直接的にモンサンミッシェルとは関わっていません。

キーワードとしては、
モンサンミッシェルを建てるきっかけが、
「大天使ミカエル」のお告げ。
ジャンヌがフランス軍に参戦するのも
「大天使ミカエル」のお告げ。

そして、言えることは、ジャンヌがいなかったら、
ここは「イングランド」だったかもしれません。
そう思いながら、島内の入り口にある
イングランド軍の置き土産の「大砲」に触れると
また違った感覚が芽生えるかもしれません。

シャルル7世が戴冠しなければ、
トロワ条約が、有効だったら、
「たら」「れば」・・・

だから、サンピエール教会には
ジャンヌがいるのではないでしょうか。

素敵な世界遺産「モンサンミッシェル」
修道院、要塞、監獄、再び修道院、
長いときを経て、
今、世界遺産として存在しています。

ここが、モンサンミッシェルが
フランスであることの象徴が
「ジャンヌ・ダルク」なんだと思います。

だから、切っても切り離せない存在なんですね。
「ジャンヌ・ダルクとモンサンミッシェル」は。

                     

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