前回の話


その日も、特別な約束をしていたわけじゃなかった。


会社帰り、たまたま時間が合って、

じゃあ、少しだけお茶でも」

そんな流れで喫茶店に入った。


本当に、よくある日だった。



それでも、私はあの時間を、今でも忘れられない。



お互いにアイスコーヒーを頼んで、

仕事の話を少しして、

彼は静かに、私の話を聞いてくれていた。


「もうすっかり、社会人だな」って、

笑いながら。



何度も会ってるのに、

なんであんなに緊張していたんだろう。


彼が私を見る視線の温度が、

少しだけ変わったように思えた。



気づけば、私は彼の手元ばかり見ていた。


細くて、綺麗な指。

何かを書いていた跡が残るような、男の人の手。


「その手、好きかも」って、思わず口にしそうになったけど――

もちろん言えるはずもなくて、

私はただ、コーヒーを一口、飲んだだけだった。



帰り道。

あの時、彼が少しだけ歩く速度を緩めたのを、私は覚えている。


ほんの、数秒だった。

でも私には、それが嬉しかった。



改札までの道のりを、私たちは何も話さずに歩いた。

だけど、その“沈黙”が、心地よかった。


隣にいてくれることが、言葉よりもずっと強くて。



ホームの手前で、

私が振り返って、「また連絡しますね」と言った時。


彼は、少しだけ言葉を詰まらせて、

「うん、無理せずね」って、優しく微笑んだ。


その顔を、私はきっと、ずっと忘れられない。



あの夜、家に帰ってから。

私はベッドの上で、彼との会話を何度も思い返していた。


「もし、彼に“奥さん”がいなかったら」

「もし、私がもっと年上だったら」


たらればの思考を、止めることができなかった。



でも、何も言えなかった。

何も、聞けなかった。



静かに“重なる”時間を、

ただ、少しずつ少しずつ、積み重ねていっただけだった。



第4話:「とりあえず、結婚してみたい」へ続くー