「高橋さん、今日もお疲れさまでした」


あれから何回か藤井さんとそのカフェに来ていた。


カフェを出ると、藤井さんがふと私の方を向いた。


いつもと同じ「少しだけ」と立ち寄っただけの、ほんのささやかな時間だったのにーー。


「…あの、お名前で呼んでもいいですか?」


唐突な言葉に、息が詰まる。


「いや、いつも”高橋さん”って呼んでるけど、なんだか他人行儀な気がして…」


「……」


藤井さんの目は、どこまでも穏やかだった。

でも、その奥にほんの少しだけ迷いがあるのが分かる。


心臓が、痛いほど高鳴った。


「……ええ、もちろん、いいですよ」


静かに頷くと、藤井さんは小さく笑った。


「じゃあ…美咲さんって呼びますね」


ーー名前を呼ばれた瞬間、胸の奥が、強く震えた。


***


その日から、二人の距離は明らかに変わった。


「美咲さん、今日の商談、すごく分かりやすかったです」


「美咲さんって、こういうときどうします?」


「美咲さんは…どう思いますか?」


以前と変わらないようで、決定的に違う。

彼は、“高橋さん”ではなく、“美咲さん”と呼ぶようになった。


そのたびに、胸が熱くなる。


(どうしよう…もう戻れない)


名前を呼ばれるだけで嬉しくて。

ほんの少し、他の人より特別になれた気がしてしまう。


でも、それは錯覚だ。


(だって、彼には…)


そう思うのに、彼は時折、見つめるように私の目を見る。

商談が終わっても、ほんの少し長く話したがる。

カフェで過ごした時間のことを、わざわざ思い出すように言う。


(藤井さん…もしかして)


(思い違いじゃない?

ーー私だけが、浮かれてるんじゃない?)


けれど、次の瞬間。


「…美咲さんと話すの、なんだか落ち着くんですよね」


優しくそう言われて、

それは思い違いじゃないと感じた。


次の約束をしたわけでもないのに、もう、次に会う日が待ち遠しかった。