レプリカ
海外製。
全長約1,310mm。
重量約2.2kg。
ストラップ本皮。
収納袋無。
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IWGP(International Wrestling Grand Prix、インターナショナル・レスリング・グラン・プリ、国際レスリング大賞)は、かつて新日本プロレスが開催したIWGPリーグ戦の名称及び同団体が管理するチャンピオンベルトの名称。
IWGPはプロレス界における世界最強の男を決めるという考えの下にアントニオ猪木が提唱したものである。各地域や各々の団体にチャンピオンベルトがある事で真のチャンピオンを決めるべき姿を確立する為の目的で当初の計画では日本で開幕戦を行い、韓国→中近東→欧州→メキシコと転戦して決勝戦をニューヨークで行う予定だったが計画が壮大すぎたことに加え、「プロレス界における世界最強の男を決める」と言うプランから、それぞれの地区で王者を抱えていたプロモーターからの協力も得られず、紆余曲折の末1983年5月6日に蔵前国技館で第1回「IWGPリーグ戦」を開催。第1回「IWGPリーグ戦」決勝のハルク・ホーガン対アントニオ猪木戦におけるハルク・ホーガンのアックスボンバーによるアントニオ猪木の失神KOシーンが有名。第2回「IWGPリーグ戦」でも両者は決勝で戦ったが長州力の乱入によるリングアウトでアントニオ猪木が勝利。
IWGPヘビー級王座に先駆ける形で1985年12月12日にIWGPタッグ王座、1986年2月6日にIWGPジュニアヘビー王座が創立され、本来の目的であったIWGPヘビー級のリーグ戦は1987年の第5回まで行われ、6月12日、第5回「IWGPリーグ戦」を制したアントニオ猪木に初代IWGPヘビー級王者としてチャンピオンベルトが授与された。以降IWGPはチャンピオンベルトの名称として現在まで受け継がれている。
新日本プロレスの旗揚げ当時、世界最高峰のプロレス団体、最高の権威を持つと言われていたのがNWAであった。このNWAに加盟しなければNWAの世界王者も招聘することはできないし、タイトルに挑戦することもできなかった。しかし、NWA加盟は新日本プロレスにとって高いハードルであった。元々日本のプロレス界とNWAは深いつながりを持っていた。力道山の存命中から、当時の世界王者であったルー・テーズを招聘してタイトルマッチも実現している。日本プロレスは崩壊するまで、NWAの加盟団体であった。NWAは1ヶ国(1地域)に1団体という規定があり、日本はすでに日プロが加盟していたが、ジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げすると、アメリカ遠征時代の深い関わりから、臨時総会が開かれて加盟が認められている。これに対して新日本は、猪木の知名度がアメリカでは馬場よりも大きく劣ることもあって、ほとんど無視されているような状態であった。閉ざされていたNWA加盟への道を切り開くきっかけを与えてくれたのは、ビンス・マクマホンとマイク・ラベールであった。彼らは独占禁止法を盾に取ってNWAに対して訴訟を起こしてはどうかと提案。こうした経緯もあって新日本は1980年にNWA加盟が認められた。しかしNWAでは実務的な話しかされず、さらにチャンピオンを招聘してタイトルマッチができるのは既存のプロモーターだけという条件も付けられていた。何かと障害があり不自由が多いNWAでの活動に辟易していた新間寿は、ある時お経を読んでいるときにIWGPの構想を思いついた。時を同じくして、猪木から「新間、NWAには入ったけど、チャンピオンは来ない。何かいいアイディアはないか?」という話があり、新間は「簡単じゃないですか。NWAの上にいくやつを創りましょう。創れるか創れないかではなく、創ればいいんですよ」と申し出た。
1983年から1987年のIWGPリーグ戦を経て現在の新日本プロレスが認定するIWGP王座は以下の通り。
IWGPヘビー級王座は、日本のプロレス団体である新日本プロレスが管理する王座(タイトル)。
IWGPは元々は、「International Wrestling Grand Prix」というリーグ戦を意味するものであったが、1987年に開催された第5回「IWGP王座決定リーグ戦」の優勝者であるアントニオ猪木を初代チャンピオンとして防衛戦が行われ、現在まで継承されている。
タイトル制定以降、新日本プロレスを象徴する同団体で最も権威のあるチャンピオンベルトとされている。デザインは初代から4代目まであり、初代は1983年の第1回IWGPリーグ戦開催にあたって作成され優勝したハルク・ホーガンが初めて巻き、1997年まで使用されたが、旗揚げ25周年を迎えて一新された。
2001年にPRIDEのリング上でアントニオ猪木から初代ベルト王者として指名を受けた藤田和之と、2代目のベルトを継承していた第28代王者スコット・ノートンとの間で4月9日に大阪ドームで「IWGP新旧ベルト統一戦」が行われ、この一戦に勝利した藤田が2本のベルトを獲得したが、年末に練習中に右アキレス腱を断裂。2002年1月4日、防衛戦が出来ずに2本のベルトを猪木に返上。
その後、2代目のベルトを使用していたが、2005年7月11日、通算最多防衛記録を持つ橋本真也が逝去。天山広吉に勝利して再び王者となった藤田が、橋本の功績を称え、橋本家に2代目ベルトを贈呈することになり、新デザインを作成。9月30日にサイモン・ケリー猪木新社長就任披露パーティーにて米国で制作された3代目のベルトが藤田に授与された。10月9日東京ドームでブロック・レスナーが獲得。その後、剥奪することになったが返還されることなく、新王者となった棚橋弘至が2代目ベルトを代用。
3代目ベルトはその後、IGF旗揚げ興行で新日本とは無関係に行われた防衛戦でレスナーを下したカート・アングルに渡ったが、2008年に第48代王者の中邑真輔がカートとのベルト統一戦に勝利して奪還に成功。3月2日、プロレスリングZERO1-MAX後楽園ホールのリングに上がり、佐藤耕平に勝利。試合後、橋本家に2代目ベルトを贈呈。その後イメージ刷新のため現行の4代目ベルトが制作された。
新日本プロレスリング認定の「プロレスリング競技者規約 IWGP各選手権ルール」第2条第1項によって体重100kg以上の選手を対象としている。しかし、2007年2月18日に棚橋弘至の持つ王座に金本浩二が挑戦したほか、現在も体重が100kgに満たない選手の挑戦があるため事実上体重の制限はなくなったと考えられる。
Wikipediaより
以下参考画像
レプリカ
メーカー名 ジュウロクホウイ
仕様
■素材
ーベルト部分:牛床革
ー金属部分:ダイキャスト(亜鉛合金)
ー飾り石部分:イミテーションストーン
■サイズ:約1/1サイズ
■重量約2.5kg前後
インターナショナル・ヘビー級王座(インターナショナル・ヘビーきゅうおうざ)は、かつて 日本プロレスが管理し、その後全日本プロレスに管理権が移ったフラッグシップタイトルである。日本プロレス界で現存するタイトルとしては最古の歴史を持つ王座の一つであり「日本マット界の至宝」とも言われるほど権威も高い。
現在は三冠ヘビー級王座を構成する3本のベルトのうちの一つである。
この王座は、NWA本部が1958年6月に日本を始め世界各国で積極的にNWA世界ヘビー級王座の防衛戦を行って防衛を続けたルー・テーズの実績を認めて、NWA世界ヘビー級王座とは別に、新たにルー・テーズを初代のインターナショナル・ヘビー級王者として認定したことによって始まったものである。このインターナショナル・ヘビー級王座が1958年8月27日、アメリカ合衆国・カリフォルニア州ロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムでのノンタイトルマッチで力道山がルー・テーズに勝利(反則勝ち)し、力道山はこの勝利を理由に王者の資格があると主張する。テーズはその後も世界王座を奪回するまで、王者として活動している。後にルー·テーズより王者を名乗る事を認められたと推察される。(なお、この王座には専用のチャンピオン・ベルトは存在せず、帰国後に力道山が作成した。2度目に製作されたものが、ジャイアント馬場が1972年に全日本プロレスを旗揚げした時に力道山家から寄贈され、世界ヘビー級王座、後のPWFヘビー級王座のチャンピオン・ベルトとなる)。これ以後、日本に定着することになる。
インターナショナル・ヘビー級王座が力道山に移ってからは日本プロレスの至宝として東京・大阪などの大会場でタイトルマッチが行われ、力道山はドン・レオ・ジョナサン、エンリケ・トーレス、ミスター・アトミック、サニー・マイヤース、プリンス・イヤウケア、ミスターX、ゼブラ・キッド、ジェス・オルテガ、パット・オコーナー、バディ・オースチン、ザ・デストロイヤーなどといった強豪レスラーと名勝負を繰り広げ、またグレート・アントニオやヘイスタック・カルホーン、ムース・ショーラックなどの異能派レスラーとも王座を賭けて戦うなど、インター王座は力道山の代名詞となっていく。力道山は一度もこの王座を明け渡すことなく、19回連続防衛(ただし反則負け防衛が1回ある)を果たした。
しかし力道山は1963年12月4日にザ・デストロイヤーを相手に19回目の王座防衛を果たした後、兇刃に斃れて12月15日に急逝。その後、日本プロレスはインターナショナル・ヘビー級王座について、『力道山一代限りのもの』として封印を決める。
ジャイアント馬場が凱旋帰国しスケールの大きなレスリングで爆発的な人気を得ると「馬場を力道山の後継者として、インター王者を継がせるべきだ」という声が起こり、日本プロレスはNWAの了承を得てインターナショナル王座の封印を解除、「NWA認可、日本プロレスリング・コミッション認定」のタイトルとして復活させる。ただしチャンピオンベルトは力道山が使用したものを使わず、それとは全く別にベルトを新調した。
1965年11月24日、王座決定戦でディック・ザ・ブルーザーを破った馬場が第3代王者に就く。馬場は途中ボボ・ブラジル、ジン・キニスキーに王座を明け渡したものの、1972年9月に日本プロレス脱退・全日本プロレス創立に伴い王座を返上するまで、タイトルを保持した。この間テーズ、キニスキー、デストロイヤー、フリッツ・フォン・エリック、キラー・カール・コックス、ゴリラ・モンスーン、ブルーノ・サンマルチノ、ターザン・タイラー、クラッシャー・リソワスキー、ウイルバー・スナイダー、フレッド・ブラッシー、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク、ドリー・ファンク・ジュニア、ザ・ストンパー、スパイロス・アリオン、イワン・コロフ、クリス・マルコフ、テリー・ファンク、ブルドッグ・ブラワー、ジョニー・バレンタインらの強豪を退け、インターナショナル王座の価値はますます高いものとなった。キニスキーやドリー・ファンク・ジュニアがNWA世界ヘビー級王者として来日した際にも、日本プロレスとNWA双方の「日本にはインター王者がいるから」という意向で馬場が挑戦するNWA戦ではなくNWA王者が馬場に挑戦するインター戦が行われたことがあった(もっとも、馬場本人はNWA戦を望んでいたという)。
馬場の王座返上後の1972年12月、大木金太郎とボボ・ブラジルの間で新王者決定戦が行われ(「頭突き世界一決定戦」とも称された)、ブラジルが初戦に勝ち王座復帰、第2戦で大木が勝って念願のインターナショナル王座のベルトを腰に巻いた。以降、大木はビリー・レッド・ライオンとフリッツ・フォン・エリックを相手に防衛戦を行ったが、アントニオ猪木とジャイアント馬場が抜けた後の日本プロレスは観客動員が格段に落ち、程なくして経営不振になり自前の興行を行えなくなった後、団体としての活動を停止した。それに伴い、インターナショナル・ヘビー級王座は認定コミッション消滅により宙に浮いた状態となったが、チャンピオンベルトそのものは大木が所持し、地元韓国にてスーパー・デストロイヤー、マリオ・ミラノ、ザ・デストロイヤー、サムソン・クツワダ、サンダー杉山、アブドーラ・ザ・ブッチャー、高千穂明久、ドン・レオ・ジョナサン、稲妻二郎、キラー・トーア・カマタ、キング・イヤウケア、ブル・ラモス、フレッド・ブラッシー、ジョニー・ロンドス、チーフ・フランク・ヒルなどと防衛戦を行った。大木が新日本プロレスに参戦していた当時の1975年3月27日には、ソウルでアントニオ猪木の挑戦も一度受けている。これは猪木唯一のインター戦となった。1980年に大木が国際プロレスに入団してからは、ジョー・ルダック、ジプシー・ジョー、ビル・ドロモ、上田馬之助を相手に日本でも防衛戦が行われた。
全日本プロレスは1981年4月13日、NWA本部からの勧告という形で大木に王座を返上させ復活トーナメント(9人参加)を開催し、以降は全日本プロレスのタイトルとして定着する(大木は馬場の推薦で韓国のプロモーターとしてNWAに加盟しており、「NWA非加盟の国際プロレスでインター戦を行ったのはNWA会員として問題」という趣旨の勧告であった。なお、全日本プロレスは交換条件として馬場が大木から奪取して封印していたアジアヘビー級王座を大木に渡している)。
全日本プロレスマットで復活したインターナショナル・ヘビー級王座のトーナメント決勝は1981年4月30日の松戸市運動公園体育館で行われる予定だったが、準決勝の馬場戦で勝利するも右足首を捻挫したブルーザー・ブロディが決勝戦を棄権したため、ドリー・ファンク・ジュニアが自動的に王者となった。同日はトーナメント参加者によるくじ引きでドリーへの挑戦者を決めたが、弟のテリー・ファンクが当たりくじを引いて最初で最後の兄弟対決が実現し、54分ジャストにエビ固めでドリーが初防衛に成功している。
1981年10月9日、ブロディがドリーを破って王座を奪取。一旦はドリーに王座を奪回されるものの、1982年4月21日、再びドリーを破り王座の再奪取に成功(その間、ドリーは当時のアメリカでの主戦場だったNWAフロリダ地区にて、ジャック・ブリスコ、マイク・グラハム、ブッチ・リード、ブライアン・ブレアー、ミスター・レスリング2号、スウィート・ブラウン・シュガーなどを挑戦者に防衛戦を行っている)。
同年8月プエルトリコのサンフアンで行われたNWA総会において「NWAは東洋シェアでの実績と信用を評価し、インターナショナル・ヘビー級王座、インターナショナル・タッグ王座、インターナショナル・ジュニアヘビー級王座の3つのインターの王座は、今後はPWFと全日本プロレスに半永久的に管理及び運営を一任する」(総会に出席した馬場・談)という決定がなされ、PWFヘビー級王座と共に全日を象徴するシングルタイトルとなる。ブロディは再奪取以降通算1年4ヶ月、10回連続防衛という、外国人レスラーとしてはまれに見る長期政権を樹立する。
そのブロディを1983年8月31日に破り新王者となったのがジャンボ鶴田で、王座奪取後のロッカールームで馬場から「今日からお前がエースだ」と祝福されたのは有名な話である。
鶴田時代は初奪取となった第14代王者として17回連続防衛、途中スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディに短期間奪われたものの5年7か月に渡って王座を維持した。その間、ニック・ボックウィンクル、ハーリー・レイス、ビル・ロビンソン、テリー・ゴディ、アブドーラ・ザ・ブッチャーらの挑戦を退けたほか、1986年3月29日にはハンセンのAWA世界ヘビー級・PWFヘビー級両選手権との日本初のトリプル・タイトルマッチが実現した。1988年頃から天龍源一郎の呼びかけで三冠統一の機運が盛り上がり、PWF王座・UN王座とのトリプル・タイトルマッチが多くなった。インターヘビー単独のタイトルマッチが最後に行われたのは、1988年9月9日、鶴田がブッチャーの挑戦を受けて防衛した試合である。
1989年4月18日、ジャンボ鶴田がスタン・ハンセンを破って本王座・PWF王座・UN王座の三冠王者となってからは、三冠ヘビー級王座として統合された。
Wikipediaより
以下参考画像
公式レプリカ
メーカー名 ジュウロクホウイ
仕様
■素材
ーベルト部分:牛床革
ー金属部分:ダイキャスト(亜鉛合金)
ー飾り石部分:イミテーションストーン
■サイズ:約1/1サイズ
■重量約2.5kg前後
PWFヘビー級王座(ぴーだぶりゅーえふ へびーきゅうおうざ)は、日本におけるプロレスの王座のひとつ。PWF(全日本プロレス)が管理するヘビー級のフラッグシップタイトルである。旧称は、世界ヘビー級王座(せかいへびーきゅううおうざ)、PWF認定世界ヘビー級王座(ぴーだぶりゅーえふにんていせかいへびーきゅうおうざ、略称:PWF世界ヘビー級王座)。
現在は三冠ヘビー級王座を構成する3本のベルトのうちの一つである。
1972年に、力道山の死後、百田家に保管されていたインターナショナル・ヘビー級選手権及びWWA世界ヘビー級選手権のベルトとして使用されていたチャンピオンベルト(通称・力道山ベルト)が、全日本プロレスを創立して間もないジャイアント馬場に寄贈された。
これを受け、全日本プロレスでは力道山ベルトを「世界ヘビー級選手権」のベルトとして使用することを決め、その王座争奪戦を開催した。
この新設王座争奪戦は、ジャイアント馬場とブルーノ・サンマルチノ、テリー・ファンク、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・デストロイヤー、ウイルバー・スナイダー、ドン・レオ・ジョナサン、パット・オコーナー、ボボ・ブラジルの8選手による勝ち抜き十番勝負という形で行われ、馬場が8勝2引分けという成績を収め(最初の対戦で引き分けたサンマルチノ、スナイダーには再戦で勝利)、初代世界ヘビー級選手権者となる。全日本プロレスがハワイ州ホノルルを本部とするPWF(Pacific Wrestlimg Federation)を設立し、初代会長には馬場と旧知の仲であったハワイのプロモーターのロード・ジェームス・ブレアースが就任した。
そして、世界ヘビー級王座をPWF認定世界ヘビー級王座と改め、馬場が自らその初代王者となった。途中1974年に、NWAの勧告により「世界」の文字を外してPWFヘビー級王座となった(NWAは傘下の各団体に「NWA世界ヘビー級王座以外の世界王座を作ったり認定したりしないこと」を求めているため)。
初代王者の馬場はザ・シーク、ブッチャー、オコーナー、ドリー・ファンク・ジュニア、ハーリー・レイス、フリッツ・フォン・エリック、ジン・キニスキー、ペドロ・モラレス、ビル・ロビンソン、プロフェッサー・タナカ、ディック・マードック、ブラックジャック・マリガン、クリス・マルコフ、ディック・ザ・ブルーザー、オックス・ベーカー、ワフー・マクダニエル、キラー・カール・コックス、ケン・パテラなどを退けて38回連続防衛(これは今でも日本プロレス史上の最多連続防衛記録である)を果たしたほか、ジャック・ブリスコ(NWA)、ブルーノ・サンマルチノ(WWWF)、大木金太郎(アジア)の各王者とのダブルタイトルマッチも行った。
1978年6月にキラー・トーア・カマタとの防衛戦で、カマタの反則に怒った馬場が反則でやり返して大暴走、反則負けで王座転落。それまでアメリカでも日本でも「反則やリングアウトでは王座は移動しない」となっていたのを馬場が「反則負けでも負けは負け」と反則・リングアウトでの王座移動を認めるようにしていたのだが、それが裏目に出た形となった。カマタは初防衛戦でロビンソンに敗れ、ロビンソンからブッチャーへ王座は移動、1979年2月に馬場はシカゴで王座奪回に成功する。
第5代王者時代の馬場は、防衛戦のペースこそ低下したもののブッチャー、ブルーザー・ブロディ、カマタ、ロビンソン、タイガー・ジェット・シン、テリー・ゴディらを相手に3年8ヶ月の間防衛を続けた。この間、1981年1月には馬場のデビュー以来3000試合無欠場記録記念試合としてバーン・ガニアのAWA世界ヘビー級王座とのダブルタイトルマッチが行われ、1982年2月には新日本プロレスから引き抜いたスタン・ハンセンとのシングル初対決がPWF選手権試合として実現している(2試合とも東京スポーツプロレス大賞の「年間最高試合賞」を受賞)。また、グリーンズボロ(バロン・フォン・ラシク)、ミネアポリス(スーパー・デストロイヤー・マークII)、アトランタ(テリー・ゴディ)、ダラス(キングコング・バンディ)などアメリカ各地で防衛戦が行われたのも馬場王者時代の大きな特徴である。
1982年10月に馬場はレイスに敗れて王座転落するも1983年2月セントルイスで奪還。しかし9月にはハンセンに敗れまたも王座から転落する。この頃からはレイス→馬場→ハンセン→馬場→ハンセン→長州力→ハンセン→天龍源一郎→ハンセン、と、1年前後の在位の王者が続くことになる。1989年4月18日、PWF・UN王者のハンセンがインター王者のジャンボ鶴田と統一戦を戦い、勝った鶴田が三冠統一ヘビー級王者となる。
Wikipediaより
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レプリカ
海外製。
全長約1,150mm。
重量約3.5kg。
ストラップ本革。
収納ケース無。
刻印無。
アジアタッグ王座(アジアタッグおうざ)は、かつて日本プロレスが創設した王座。管理権が全日本プロレスに移行後、PWFの認定となった。正式名称はオールアジアタッグ王座。
1955年11月に日本プロレスがアジアのシングル・タッグ両王者を決定するためのアジア選手権を開催し、そのタッグ部門で優勝したキングコング&タイガー・ジョキンダーをアジアタッグ王者として認定したのが始まりである。力道山&豊登が3代目の王者になって以来、日本プロレスの看板タッグタイトルとして幾多の名勝負が繰り広げられた。
日本プロレスがジャイアント馬場をエースとする時代に入り、インターナショナル・タッグ王座が日本に持ち込まれると二番手に降格された。とはいえ、当時の挑戦者チームには、ドリー・ファンク・ジュニア&ハーリー・レイス、アブドーラ・ザ・ブッチャー&カリプス・ハリケーン、クリス・マルコフ&ブル・ラモス、ジン・キニスキー&キラー・カール・コックスなどの強力チームも名を連ねている[1]。ジ・アサシンズ(トム・レネスト&ジョディ・ハミルトン)、ブロンド・ボンバーズ(リップ・ホーク&スウェード・ハンセン)、ミネソタ・レッキング・クルー(ジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソン)、ジョニー・バレンド&マグニフィセント・モーリスの伊達男コンビ、ネルソン・ロイヤル&ポール・ジョーンズの牧童コンビ、ブラック・ゴールドマン&エル・ゴリアスの泥棒コンビ、アル・コステロ&ドン・ケントの2代目ファビュラス・カンガルーズなど、当時のアメリカン・プロレス界を代表する「タッグ屋」の挑戦も受けた。
当初、プロレス界でタッグ王者に授与されるのはトロフィーだったが、アジアタッグは1966年12月3日に第18代王者の吉村道明&大木金太郎からは、二頭の麒麟がデザインされたベルトとなった。
日本プロレス崩壊後は他のタイトルとともに全日本プロレスに受け継がれたが、全日本側は崩壊当時の王者チームであるグレート小鹿&松岡巌鉄組に防衛戦をさせる気がなく、一時的に王座は休眠状態となる。
この時の復活王者はグレート小鹿&大熊元司の極道コンビで、これ以降、若手選手と中堅選手によるタイトルという性格となり、現在では主力選手への登龍門と化している。もうひとつのタッグ王座である世界タッグ王座と比較すると軽視されがちであるが(1980年代にはアジアタッグ王者が世界最強タッグ決定リーグ戦に出場できないことも珍しくなかった)、60年以上の歴史を持つ、日本最古のベルトである。
2019年8月15日、旧来のベルトの老朽化に伴い、チャンピオンベルトを新調。第108代王者のジェイク・リー&岩本煌史組が、8月24日の美幌町で行われた選手権試合より使用している。
Wikipediaより
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レプリカ
海外製。
全長約1,320mm。
重量約3.5kg。
ストラップ本革。
収納ケース無。
刻印無。
インターナショナル・タッグ王座(エヌダブリューエーインターナショナル・タッグおうざ)は、かつて日本プロレスがWWAに働きかけてアメリカで設立。後に全日本プロレスに管理権が移りPWF認定のタイトルとなった。現在は世界タッグ王座を構成する2本のベルトのうちの一つである。長期間NWAの認可だった事もあり、日本以外ではNWAインターナショナル・タッグ王座と呼称される。
フリッツ・フォン・ゲーリング&マイク・パドーシスが、1966年9月の日本プロレス参戦前に王者チームとして認定された。初代王者チームはアル・コステロ&ロイ・ヘファーナンのファビュラス・カンガルーズで、ゲーリング&パドーシスは第6代王者とされるが、ゲーリング組が来日するまでの変遷はフィクションと見られている。
G SPIRITS vol59によると、インタータッグのベルトは鷲の大きさや鷲の羽根の開き方など多少の違いはあるものの、基本デザインとベースはインターシングルやアメリカスヘビー級王座ベルトとほとんど一緒となっており、これはカップやトロフィー、メダルなどを製造する元浅草の老舗松本微章工業株式会社の作品として知られる。日本プロレスはインタータッグ王者を新設するにあたって、同社製造のシングルの黒革に青字を張ったベルトに少し似せた雰囲気の黒革のみのベルトを日本で作らせ、それをケースに入れて梱包し羽田からロスへ空輸する手続きをしたと日本プロレスで担当した三沢正和が答えている。
そのベルトをロサンゼルスで最初に巻いたのはビジランテスというタッグチーム、ジェリー&ボビーのクリスティ兄弟としており、つぎにゲーリング&パドーシス組に移動させ、こうしてしばらく泳がせてアメリカでの既製ベルトのように見せかけ箔をつけさせた。選手権の様子はロスの特派員である吉本栄が随時写真を日本に送って東京スポーツの一面を飾っていく。
南カリフォルニアを地盤とする往時のWWAは提携する日本プロレスのために、自分たちとほとんど無関係なよそ者レスラーを使って、ストーリー作りに協力していたようである。
同年11月5日にジャイアント馬場&吉村道明がゲーリング&パドーシスを破って王座について以来、日本を代表するタッグベルトとして幾多の名勝負を生んだ。
歴代王者には馬場&アントニオ猪木(BI砲)、坂口征二(東京タワーズ)、ジャンボ鶴田(BJ砲)のコンビや、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキー、ザ・ファンクス、大木金太郎&キム・ドク、タイガー・ジェット・シン&上田馬之助、ロード・ウォリアーズ、鶴田&天龍源一郎(鶴龍コンビ)、長州力&谷津嘉章などの名コンビが名を連ね、挑戦者チームも、フリッツ・フォン・エリック&ワルドー・フォン・エリック(フォン・エリック・ブラザーズ)、スカル・マーフィー&ブルート・バーナード、ダスティ・ローデス&ディック・マードック(テキサス・アウトローズ)、キング・イヤウケア&ブル・ラモス(ザ・タイクーンズ)、アブドーラ・ザ・ブッチャー&キラー・トーア・カマタ、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディ(ミラクルパワーコンビ)、ミル・マスカラス&ドス・カラス(マスカラス・ブラザーズ)、マイケル・ヘイズ&テリー・ゴディ(ファビュラス・フリーバーズ)などプロレス史上に残るタッグチームや、ハンス・シュミット&バディ・オースチン、マッドドッグ・バション&キラー・カール・コックス、ジン・キニスキー&ジョニー・バレンタイン、ブルーノ・サンマルチノ&キラー・コワルスキー、ビル・ロビンソン&ワフー・マクダニエルといった即席ながら強豪外国人同士のドリーム・チームまで、幾多の名レスラー・名コンビの名前が並んでいる。大木&ドクの戴冠時には、当時の国際プロレスの最強コンビだったラッシャー木村&グレート草津も挑戦した。
馬場&吉村の王座獲得から1973年4月までは日本プロレスの管理下にあったが、日本プロレス崩壊後の1973年5月から1975年2月まではファンクスがタイトルを保持し、本拠地のテキサス州アマリロや全日本プロレスにおいて防衛戦を行っていた(アマリロでは、1974年に馬場&パク・ソンやザ・ブラックジャックスの挑戦を受けている)。1975年2月5日、テキサス州サンアントニオで馬場&鶴田がファンクスを破って王座を奪取、以降は全日本プロレスのフラッグシップ・タッグタイトルとなった。1982年8月30・31日にプエルトリコのサンフアンで行われたNWA総会では「NWAは東洋シェアでの実績と信用を評価し、インターナショナル・ヘビー級王座、インターナショナル・タッグ王座、インターナショナル・ジュニアヘビー級王座の3つの王座は、今後はPWFと全日本プロレスに半永久的に管理および運営を一任する」(総会に出席した馬場・談)という決定がなされ、NWAから全日本プロレスに管理権を委託したことが正式に発表された。
1988年、インターナショナル・タッグ王者のウォリアーズとPWF世界タッグ王者の鶴田&谷津の間で統一戦が行われ、鶴田組が勝ったことにより両王座は世界タッグ王座として統一された。
Wikipediaより
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レプリカ
海外製。
全長約1,260mm。
重量約5.5kg。
ストラップ本革。
収納ケース無。
刻印無。
ユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座(ユナイテッド・ナショナル・ヘビーきゅうおうざ)は、かつて 日本プロレスが管理し、後に全日本プロレスに管理権が移ったプロレスの王座である。UNヘビー級王座の略称で表記・呼称される。
現在は三冠ヘビー級王座を構成するチャンピオンシップの一つである。
この王座は1970年8月にNWA本部がメキシコ、カナダ、アメリカの3国で通用する国際タイトルとして新設した。新設時からアントニオ猪木に奪取されたジョン・トロスまでの変遷については、プロレス雑誌でも諸説がある。
1971年3月26日にアメリカ・ロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムでアントニオ猪木がジョン・トロスを破って王座を獲得して日本に持ち込みほぼ定着する。猪木はUNヘビーを獲得したことで、当時インターナショナル・ヘビー級王者であったジャイアント馬場に対抗するはずであったが、猪木が日本プロレスを除名されるとともにベルトはNWA本部へ返還された。その後坂口征二が王者となり延べ1年にわたり保持、その坂口が日本プロレス離脱後には高千穂明久が王者となったが、間もなく日本プロレスが崩壊、王座は休眠状態になった。
1976年に全日本プロレスの要請で王座が復活し、以降同団体に定着する。ジャンボ鶴田が王者になったが、タイトルの格はPWFヘビー級王座より下とされていた。その鶴田も5度目の王獲得後、インター王座獲得に専念する為に王座を返上してしまい、全日本におけるタイトルの格は3番目ということになってしまった。その後、天龍源一郎が長きにわたってベルトを保持し、天龍の代名詞といわれるまでになった。
1989年4月18日にジャンボ鶴田が本王座・PWF王座・インター王座の三冠を統一してからは、三冠ヘビー級王座のベルトの一本として定着する。
ZERO1にて現在のNWAが認定するNWAユナイテッド・ナショナル・ヘビー級王座というタイトルが存在しているが、上記の王座とは無関係である。
Wikipediaより
以下参考画像
レプリカ
海外製。
全長約1,290mm。
重量約5.0kg。
ストラップ本革。
収納ケース無。
刻印無。
NWF(National Wrestling Federation、全米レスリング連盟)は、1970年代前半にアメリカ合衆国に存在したプロレス団体。
プロモーターのペドロ・マルティネスと、選手兼プロモーターのジョニー・パワーズを中心に設立、運営され、ニューヨーク州バッファロー、オハイオ州クリーブランドを拠点に、アメリカ北東部、五大湖地区およびカナダを主要エリアとして活動した。「North American Wrestling Federation」を正式名称とする説もある。
1970年にニューヨーク州バッファローを中心とするアメリカ北東部の大物プロモーター、ペドロ・マルティネスと、同地のトップスターであり、オハイオ州クリーブランドのプロモート権を得ていたジョニー・パワーズを中心に、メジャー団体のNWA、AWA、WWWF(現:WWE)と一線を画す独立団体として設立された。パワーズは同年ロサンゼルスにおいてフレッド・ブラッシーに勝利したとして初代世界王者に認定され[1] 、その後、王者は目まぐるしく交代する。
最盛期にはミシガン州、メリーランド州、カナダのトロント、モントリオールへとテリトリーを拡大、弱小団体とは呼び難い勢力を持つに至った。ボボ・ブラジル、ジョニー・バレンタイン、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・シーク、アーニー・ラッドら一流選手が多数集結、パワーズとバレンタイン、ラッドとブッチャーとの抗争などの名物カードも生み、アメリカのプロレス誌上では、NWA、AWA、WWWFに次ぐ第4の団体と認知されていた時期もあった。
しかし1973年に入ると勢力は衰退、縮小していく。同年12月10日に新日本プロレスで行われた世界戦において、第14代王者となっていたパワーズがアントニオ猪木に敗れ王座が日本に渡る。その後もパワーズは1974年3月には猪木を招聘してクリーブランドで世界戦を行うなど、1975年初めまでは同地で興行を行っていた。しかし前年に一時プロレス界から離れていたマルティネスが関わった新団体IWAに吸収されるかたちで、同年半ばまでには事実上活動を停止し消滅状態となった。このIWAも同年中にはスポンサーが離れたこともあり規模を縮小、パワーズが引き継ぎノースカロライナ州でインディー団体として活動を続けた。
以上のように米国プロレス史全般からみれば短命のローカル団体にすぎず、設立経緯や活動内容、歴代王者等に不明な点も多々ある。しかし、アントニオ猪木が世界ヘビー級王座を1973年の獲得から新日本プロレスの看板タイトルとして1981年まで長く保持したこと、また日本でも高名な大物選手が多く参加していたこと等により、日本には愛着や関心を持つプロレスファンが多い。
一般にNWFと新日本プロレスとの結びつきは、1966年に東京プロレスに初来日して以来の、ジョニー・パワーズとアントニオ猪木の関係によるものとされている。しかし実際には、NWF設立以前の1969年に当地をサーキットし、パワーズとも旧知の坂口征二によるブッキングと考えるのが妥当である。
日本では「パワーズが図らずも猪木に王座を奪われたため、隆盛を誇っていたNWFが一転凋落に向かった」という伝説が、長年史実として語られてきた。現在はパワーズが新日本プロレスに王座を、興行権として売却したとの見方が通説になっている。この王座売却の時点で既にパワーズは団体自体を店じまいするつもりだったとの極端な見方もされるが、その後も1975年初めまではクリーブランド等で「パワーズの保持するNWF北米ヘビー級ベルト」を看板に興行を行っており、これも断じ難い。
1975年初めで事実上NWFが消滅した後も、新日本プロレスは1977年前半頃まはNWFが存続しているようなアングルを組んでおり、パワーズによるクーデターが伝えられたこともあった。上述のように、パワーズはIWAの名で1977年半ば頃まではノースカロライナ州で興行をしており、パワーズ一派という意味ではNWFの存続もまったくの絵空事ではなかった。しかし、それ以降はNWFの消滅は日本でも周知の事実となり、同王座は事実上、新日本プロレスが管理・運営する王座となった。
1975年2月12日、NWFはNWAと業務提携を結んだ。1976年8月7日 NWA年次総会で新日本プロレス(名義人は坂口と新間寿)のNWA加盟が認められるとタイトル名から「世界」が外され、NWF世界ヘビー級王座から NWFヘビー級王座 と改称された[2]。
1981年4月、IWGP構想に伴い、スタン・ハンセンとの王座決定戦に勝った猪木により、同王座は封印された。
Wikipediaより
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レプリカ
海外製。
全長約1,300mm。
重量約5.1kg。
ストラップ本革。
収納ケース無。
刻印無。
グレーテスト18クラブ王座(グレーテストエイティーンクラブおうざ)は、かつて新日本プロレスが管理していた王座。
1990年9月29日に行われたアントニオ猪木のレスラー生活30周年記念パーティーの席上で、ルー・テーズを発起人とした「過去に猪木と闘った」、プロレスラー及び格闘家によって構成された「グレーテスト18クラブ」が認定するタイトルの制定が発表された。
プロレス、格闘技を問わず優れた選手に贈るという触れ込みで設定された王座だが、選手たちはもとより、殆どのスタッフも事前にそのような王座を作るという話は聞いていなかったとも言われている(一部のフロントの独断でテーズを説得して作ったとも言われている)。
チャンピオンベルトについては、1989年に猪木が封印したWWF世界マーシャルアーツ・ヘビー級王座のベルトが再利用された。このタイトルも僅か3代(2名)の戴冠で終わったものであった。
形式上はグレーテスト18クラブが対戦相手を指定し、防衛戦を行う形で運営され、その初の「指定試合」は1991年3月21日の東京ドームにて行われ、初代王者として認定された長州力とタイガー・ジェット・シンとの間で防衛戦が行われ、長州が防衛する。
その後、中心人物であったはずのテーズはUWFインターナショナルとの関係が強くなり、プロレスリング世界ヘビー級王座の制定に関わるなどしたため、新日本プロレスとの関係が疎遠となり、グレーテスト18クラブ王座の存在理由が微妙になってしまう。
この様な背景のなか行われた1992年8月16日の福岡国際センターにおけるIWGPヘビー級王座とグレーテスト18クラブ王座のダブルタイトルマッチで、二冠王者だった長州をグレート・ムタが破って第2代王者となるも、「グレーテスト18クラブは価値なし」として返上。その後グレーテスト18クラブが次の王者を指名する事もなく、王座決定戦も行うこともなく、そのままグレーテスト18クラブそのものも含め消滅する。
グレーテスト18クラブのメンバーとされたレスラーの中には、猪木の30周年記念パーティーには出席していないカール・ゴッチ、ボブ・バックランド、バーン・ガニア、ストロング小林、ハルク・ホーガン、モハメド・アリや、パーティー開催当時は全日本プロレスに参戦して新日本と関わっていないスタン・ハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアントもいた。
これら18人のメンバーの意見をそろえて対戦相手の選出を行っていたとは考えられず、そもそもグレーテスト18クラブ王座の存在を知っていたかすら疑問だった。その場の勢いで作ってしまった王座という印象が否めず、消えるべくして消えた王座だとも言える。
| 歴代 | 選手 | 戴冠回数 | 防衛回数 | 獲得日付 | 獲得場所(対戦相手・その他) |
|---|---|---|---|---|---|
| 初代 | 長州力 | 1 | 3 | 1991年2月25日 | グレーテスト18クラブが初代王者に認定 |
| 第2代 | グレート・ムタ | 1 | 0 | 1992年8月16日 | 福岡国際センター、返上と同時に消滅 |
Wikipediaより
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レプリカ
海外製。
全長約1,210mm。
重量約2.1kg。
ストラップ布。
収納ケース無。
刻印無。
真の世界ヘビー級王座(しんのせかいへびーきゅうおうざ、sekai hebī-kyū ōza World Heavyweight Championship)または真の世界選手権(しんのせかいせんしゅけん、Real World Championship)は、かつて新日本プロレスで設立されたタイトル。カール・ゴッチが勝利し新日本プロレスから初代チャンピオンに選ばれた。ベルトは1962年9月11日から1964年9月7日までカール・ゴッチによって保持されたアメリカン・レスリング・アライアンス(オハイオ)認定のAWA世界ヘビー級王座のベルト(ベルトはレプリカ)を利用。その後アントニオ猪木が奪取するが、防衛戦を成功したのは1972年10月9日、新黄金シリーズの12日目、レッド・ピンパーネルに対して一度だけである。ゴッチは1972年10月10日猪木からタイトルを奪還 、2度目の載冠および最後の王者となる。
アメリカン・レスリング・アライアンスWikipediaより
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