WWFインターナショナル・ヘビー級王座
WWFインターナショナル・ヘビー級王座(WWF International Heavyweight Championship)は、現在のWWEがかつてWWFだった時代に認定した王座である。1982年に新王者となった藤波辰巳によって、新日本プロレスに定着した。
概要
もともとはWWWFインターナショナル・ヘビー級王座として、アントニオ・ロッカが保持していた王座とされるが、防衛記録などの詳細は不明である[1]。1982年にWWFインターナショナル・ヘビー級王座としての復活後、同年8月30日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて、当時の王者ジノ・ブリットに藤波辰巳が挑戦して奪取。当時の実況担当だった古舘伊知郎は、かつて藤波が長年保持したWWFジュニアヘビー級王座が、初代王者のジョニー・デ・ファジオに因み「デ・ファジオ・メモリアル」と呼ばれたのに倣い、この王座を「藤波が掘り当てた『ロッカ・メモリアル』」と称していた。
同年9月21日、大阪府立体育会館にてマスクド・スーパースターを下して初防衛を飾った王者藤波に、長年地味な存在に甘んじていた長州力が、メキシコ遠征でUWA世界ヘビー級王座を奪取したのをきっかけに「俺もヘビー級の王者だ」と主張、藤波と袂を分かつことを宣言する。翌1983年4月3日、蔵前国技館において長州は2度目の藤波への挑戦で王座を奪取。この試合は プロレス大賞 のベストバウト(年間最高試合賞)に選ばれ、以降両者の抗争は同王座を中心に巡る「名勝負数え歌」と呼ばれる戦いとなり、長州戴冠後の両者のシングルマッチにおいては実に計6度のタイトルマッチが行われた。
当時、歴史的背景の薄いタイトルともされていたが、WWFはNWAやAWAと並ぶ世界三大プロレス団体という位置付けであったことから、アメリカのメジャー団体の認定するヘビー級タイトルとして認知度も次第に高まっていた。王者として知名度をあげた藤波に、挑戦者のボブ・オートン・ジュニアはタイトルマッチ前のインタビューで「このベルトをアメリカに持って帰れば即、通用するタイトルだ」と語っていた。藤波は第6代王者として長州やオートン・ジュニアの他に、キラー・カーン、エル・カネック、アドリアン・アドニス、ジミー・スヌーカなどを相手に8回連続防衛を成功させた。
1985年7月19日、藤波がスーパー・ストロング・マシンとの防衛戦の内容に不満を漏らして返上。新日本プロレスとWWFの業務提携が終了した同年10月31日をもって、この王座は空位のまま封印される。同じく藤波の保持していたWWFインターナショナル・タッグ王座(パートナーは木村健吾)と、ザ・コブラが保持していたWWFジュニアヘビー級王座も併せて返上後に封印された
タイトルマッチルールとして、フォール、ギブアップ、KO勝ちの他に リングアウト・フェンスアウト・反則勝ちなどあらゆる勝ちに対して王座が移動するルールが採用されていた。
歴代王者
| 歴代数 | レスラー | 防衛回 | 獲得日付 | 獲得した場所(対戦相手・その他) |
|---|---|---|---|---|
| 初代 | アントニオ・ロッカ | 1948年 | アルゼンチン:ブエノスアイレス | |
| 第2代 | トニー・パリシ | 1982年 | アメリカ:ニューヨーク州バッファロー | |
| 第3代 | ジノ・ブリット | 1982年8月 | アメリカ:ニューヨーク州バッファロー | |
| 第4代 | 藤波辰巳 | 3 | 1982年8月30日 | アメリカ:ニューヨーク州ニューヨーク マディソン・スクエア・ガーデン |
| 第5代 | 長州力 | 2 | 1983年4月3日 | 東京都:蔵前国技館 |
| 第6代 | 藤波辰巳 | 8 | 1983年8月4日 | 東京都:蔵前国技館 |
| 第7代 | 前田明 (前田日明) | 1 | 1984年3月25日 | アメリカ・ニューヨーク州ニューヨーク・マディソン・スクエア・ガーデン |
| 第8代 | 藤波辰巳 | 3 | 1984年7月5日 | 不明 1985年7月19日に札幌中島体育センターの防衛戦後に王座返上 |
Wikipediaより
概要
歴代王者
| 代 | レスラー | 戴冠回数 | 防衛回数 | 獲得日付 | 獲得した場所 / 対戦相手・その他 |
|---|---|---|---|---|---|
| 初代 | ジョニー・デ・ファジオ | 1 | 不明 | 1965年10月15日 | |
| 第2代 | カルロス・ホセ・エストラーダ | 1 | 0 | 1978年1月20日 | ニューヨーク州ユニオンデール / 王座決定戦(相手はトニー・ガレア) |
| 第3代 | 藤波辰巳 | 1 | 24 | 1978年1月23日 | ニューヨーク州ニューヨーク MSG |
| 第4代 | 剛竜馬 | 1 | 0 | 1979年10月2日 | 大阪府立体育館 |
| 第5代 | 藤波辰巳 | 2 | 28 | 1979年10月4日 | 蔵前国技館 / 藤波のヘビー級転向により王座返上 |
| 第6代 | タイガーマスク | 1 | 6 | 1982年1月1日 | 後楽園ホール / 王座決定戦(相手はダイナマイト・キッド)、負傷のため王座返上 |
| 第7代 | ブラック・タイガー | 1 | 0 | 1982年5月6日 | 王座決定戦(相手はグラン浜田) |
| 第8代 | タイガーマスク | 2 | 16 | 1982年5月26日 | 大阪府立体育館 / 試合中に負傷(頚椎挫傷)のため王座返上 |
| 第9代 | タイガーマスク | 3 | 1 | 1983年6月12日 | メキシコ・メキシコシティ / 王座決定戦(相手はフィッシュマン)、引退のため王座返上 |
| 第10代 | ダイナマイト・キッド | 1 | 1 | 1984年2月7日 | 1984年1月、9名による王座決定リーグ戦の末 勝ち点31で三選手が並び三つ巴戦となる 蔵前国技館 / デイビーボーイ・スミス、ザ・コブラ |
| 第11代 | ザ・コブラ | 1 | 2 | 1984年12月28日 | ニューヨーク州ニューヨーク MSG / 王座決定戦(相手はブラック・タイガー) |
| 第12代 | ヒロ斎藤 | 1 | 3 | 1985年5月20日 | 広島県立体育館 |
| 第13代 | ザ・コブラ | 2 | 3 | 1985年7月28日 | 大阪城ホール / 新日本プロレスとWWFの提携終了により王座返上 |
北米タッグ王座
NWA北米タッグ王座(エヌダブリューエーほくべいタッグおうざ、NWA North American Tag Team Championship)は、かつて全米各地に存在していたプロレスのタッグ選手権であるが、本項では新日本プロレスが管理していたものについて扱う。NWAによる認定とされていた。新日本プロレス初期の1974年から1981年まで、同団体のタッグにおけるフラッグシップ・タイトルであった。新日本プロレスの管理下に入るまでの来歴には不明点が多い。
由来
同王座が日本に初めて紹介されたのは1973年8月、ロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムにおいて新日本プロレスのアントニオ猪木と坂口征二が王者のジョニー・パワーズ&パット・パターソンに挑戦した際である。挑戦者組が勝利するが、3本目が反則勝ちのためにルールにより王者組の防衛となった。これ以前にパワーズとパターソンがアメリカでこの王座を獲得・防衛した記録は見当たらず、このタイトルはこの試合のために創作されたものと見られている。
同年12月に王者組が来日、大阪において猪木&坂口が再び挑戦するが、獲得は逃した。翌1974年6月に新王者のクルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツが新王者として来日、猪木&坂口が挑戦するがまたも獲得を逃す。同年8月16日、再びオリンピック・オーディトリアムで4度目の挑戦を果たして王座を獲得した。
ヘスとショッツは、もともとNWF世界タッグ王者として来日する予定であったといわれる。このチームがアメリカおよびカナダでパワーズ&パターソンから王座を獲得した記録がないことから、パワーズ組とヘス組の王座は別物であるとする見方もある。しかし、昭和の時代においてはパワーズ組→ヘス組→猪木組への王座変遷が通説として語られてきた。
また、同王座は「NWA認定」とされてきた。猪木組の王座獲得の時点で新日本プロレスはNWA非加盟であったが、獲得の舞台となったロサンゼルス地区(NWAハリウッド・レスリング)のプロモーターであるマイク・ラベールはNWA会員であり、新日本プロレスへのブッカーも務めていたことから、ラベールによってNWA認定の形をとっていたものと思われている。
歴史
アントニオ猪木&坂口征二が獲得してからは、新日本プロレスのタッグにおけるフラッグシップ・タイトルとして王座戦の歴史が重ねられていった。しかし当時の新日本プロレスは外国人レスラー招聘力が弱く、挑戦者もエース級のリーダーに対してパートナーが弱体の即席コンビが多かった。獲得から1年後の1975年8月1日、同じロサンゼルスのオリンピック・オーディトリアムにて、数少ない名コンビの挑戦者であるハリウッド・ブロンドス(ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ)の挑戦を受けた試合がノーコンテストとなり、日本で王座決定戦が行われることになる。しかし、猪木は負傷のため出場を辞退、代わって新日本プロレス入団まもないストロング小林が坂口と組み、9月22日に名古屋で決定戦に挑むも敗退、ブロンドスに王座が移るが、10日後の10月2日に大阪で猪木&坂口が王座を奪回している。猪木&坂口の戴冠時の主な挑戦者チームには、ニコライ・ボルコフ&シーク・オブ・シークス・オブ・バグダッド、ハンス・シュミット&ブルート・バーナード、イワン・コロフ&グレッグ・バレンタインなどがいる。アンドレ・ザ・ジャイアントも、ロベルト・ソトやトニー・チャールズをパートナーに起用して挑戦した。
1976年2月に猪木の王座返上を受けて、2月5日の札幌での決定戦に勝った坂口&小林のパワー・ファイターズが新王者となった。この時代には挑戦者組も充実し、ペドロ・モラレス&ビクター・リベラ、コロフ&スーパースター・ビリー・グラハムなど、アメリカでもタッグとしての実績のある一流チームを相手に防衛戦を行っている。1977年には新日本マットでヒールのトップチームとなったタイガー・ジェット・シン&上田馬之助と抗争を繰り広げた。王座を奪われ、猪木&坂口が挑んだこともあったが、最終的に坂口&小林が奪回している。坂口&小林時代の主な挑戦者チームとしては他にブラック・ゴールドマン&エル・ゴリアス、パット・パターソン&ラリー・ヘニング、スタン・ハンセン&ザ・ハングマン、ピーター・メイビア&ヘイスタック・カルホーン、バーナード&キラー・カール・クラップ、上田&サンダー杉山、ボブ・ループ&クルト・フォン・ヘスなどが挙げられる。
坂口&小林は1979年4月5日にヒロ・マツダ&マサ斎藤に敗れ王座転落、3年におよぶパワー・ファイターズの時代は終焉した。同年6月15日、坂口は長州力を新パートナーに王座を奪回、長州にとっては日本での初戴冠であった。7月6日の初防衛戦において、小林は木村健吾をパートナーに新王者チームに挑んだが、長州に決勝フォールを奪われ敗退した。以降は坂口&長州が2年にわたり王座を堅持し、シン&斎藤、ワイルド・サモアンズ、アイアン・シーク&スーパー・デストロイヤーなどの挑戦を退けたが[2]、強力な挑戦者チームは多くはなかった。1981年3月20日、会津でのシン&ドン・ムラコとの防衛戦を最後にIWGP提唱に伴って猪木のNWFヘビー級王座等と共に返上、封印された。なお、IWGP構想は当初シングルだけで動いており、IWGPタッグ王座が創設されたのは1985年のことである。
歴代王者
| 歴代 | 選手 | 戴冠回数 | 防衛回数 | 獲得日付 | 獲得場所(対戦相手・その他) |
|---|---|---|---|---|---|
| 初代 | ジョニー・パワーズ&パット・パターソン | 1 | 1973年8月 | ||
| 第2代 | クルト・フォン・ヘス&カール・フォン・ショッツ | 1 | 1974年5月 | ||
| 第3代 | アントニオ猪木&坂口征二 | 1 | 1974年8月16日 | カリフォルニア州ロサンゼルス、王座返上 | |
| 第4代 | ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ | 1 | 1975年9月22日 | 名古屋 | |
| 第5代 | アントニオ猪木&坂口征二 | 2 | 1975年10月2日 | 大阪、王座返上 | |
| 第6代 | 坂口征二&ストロング小林 | 1 | 1976年2月5日 | 北海道、タイガー・ジェット・シン&ブルータス・ムルンバとのトーナメント決勝戦 | |
| 第7代 | タイガー・ジェット・シン&上田馬之助 | 1 | 1977年2月2日 | 大阪 | |
| 第8代 | 坂口征二&ストロング小林 | 2 | 1977年7月28日 | 福岡 | |
| 第9代 | ヒロ・マツダ&マサ斎藤 | 1 | 1979年4月5日 | 東京 | |
| 第10代 | 坂口征二&長州力 | 1 | 13 | 1979年6月15日 | カリフォルニア州ロサンゼルス、IWGP構想により王座封印 |
Wikipediaより
以下参考画像
日本以外のIWA王座
アメリカ北東部版
ミル・マスカラスが全日本プロレスなどで防衛戦を行ったIWA世界ヘビー級王座は、1975年にマスカラスを初代王者として旗揚げされたアメリカ北東部の独立団体インターナショナル・レスリング・アソシエーションのフラッグシップタイトルであり、同団体の活動停止後もマスカラスが個人所有で保持しているもので、国際プロレスとは何の関係もない。同団体はシカゴ・ホワイトソックスのオーナーでもあったエディ・アインホーンをスポンサーに、NWFのプロモーターだったペドロ・マルティネスが運営に関わり、オハイオ州クリーブランドを本拠地として、ジョニー・パワーズ、アーニー・ラッド、オックス・ベーカー、ブルドッグ・ブラワー、エリック・ザ・レッド、マイティ・イゴール、クルト・フォン・ヘス、ザ・モンゴルズ(ジート&ボロ)などNWF系の選手が参戦していた(ニューヨーク近郊で興行を打つなどWWWFと競合していたことから、東部地区でネームバリューのある元WWWF世界ヘビー級王者のイワン・コロフも出場していた)。なお、国際プロレス崩壊後に全日本プロレスに移籍したマイティ井上の初戦が、マスカラスのIWA王座への挑戦試合だった(1981年10月9日)。井上以外では天龍源一郎、小林邦昭、外国人選手ではチャボ・ゲレロ、ジプシー・ジョーなどが全日本プロレスのリングでマスカラスに挑戦している。1992年にはW★INGプロモーションにおいて、カネックのUWA世界ヘビー級王座とのダブルタイトルマッチが行われた。以降もマスカラスは現役のIWA世界王者として、2016年には東京愚連隊の興行でNOSAWA論外を相手に防衛戦を行った。
Wikipediaより
参考画像
レプリカ
海外製。
全長約1,300mm。
重量約4.5kg。
ストラップ本革。
収納ケース無。
刻印無。
IWA世界ヘビー級王座
IWA世界ヘビー級王座(アイダブリューエーせかいヘビーきゅうおうざ)は、日本のプロレス団体であった国際プロレスがかつて認定・管理していたチャンピオンベルトのひとつである。なお、IWAは「インターナショナル・レスリング・アライアンス (International Wrestling Alliance)」の略称である。
概要
この王座に先駆ける国際プロレスのシングルのフラッグシップ・タイトルとして、1967年にルー・テーズを初代王者として創設されたTWWA世界ヘビー級王座がある。TWWAとはトランス・ワールド・レスリング・アソシエーション(Trans-World Wrestling Association)の略称で、カナダ・トロント地区のプロモーターであるフランク・タニーが会長職にあった。国際プロレスは1968年1月にテーズを招聘し、次期エース候補だったグレート草津を挑戦させた。しかし、草津はテーズのバックドロップの前に失神KO、「テーズに勝ってTWWA世界王者となった若きヒーロー草津」をエースとして団体の躍進を図ろうとした国際プロレスの目論見は失敗に終わる。
その後、サンダー杉山と豊登がテーズに挑戦するが、日本陣営では誰もテーズに勝てず、1968年1月24日、ダニー・ホッジがテーズを破って第2代TWWA王者となる。翌月、ホッジはフレッド・カリーを相手に防衛戦を行ったが、TWWAの設立者の一人であるブッカーのグレート東郷が国際プロレスと決別。外国人選手に試合出場をボイコットさせ、ホッジもベルトを持ってアメリカに帰国したため、TWWA世界王座は自然消滅へと至った。
グレート東郷と決別後、国際プロレスは外国人招聘ルートをヨーロッパに求めた。1968年4月には草津がトニー・チャールズを破りグレートブリテン西部ヘビー級王座を獲得するが、これを日本の団体の看板タイトルにするのは無理があった。渡欧した国際プロレスの吉原功社長は、現地のプロモーターらと協力して、新たな統轄組織であるIWA(インターナショナル・レスリング・アライアンス)を創立。以降IWAは、興行会社であるIWE(インターナショナル・レスリング・エンタープライズ=国際プロレス)に対してのコミッション的役割を果たすことになる。
1968年11月、国際プロレスは第1回IWAワールド・シリーズを開催する。このリーグ戦でジョージ・ゴーディエンコ、豊登との決勝リーグを制して優勝したビル・ロビンソンが初代IWA世界ヘビー級王者に認定された。ロビンソンはその後も日本に定着して、外国人ベビーフェイス第一号として国際プロレスのエースの座につく。
1970年5月19日、ロビンソンをリングアウトで破った杉山が初の日本人王者となるが、翌1971年3月4日にビル・ミラーに敗れて王座から陥落。その後、同年6月19日にアメリカのミネソタ州ダルースにてストロング小林がミラーから王座を奪取して帰国(同日、両者はミネアポリスにて、小林はロビンソン、ミラーはニック・ボックウィンクルと対戦しており[1]、ダルースにおける小林とミラーの試合は記録に残されておらず、この王座交代劇は架空のものともされる[2])。以降、小林が国際プロレスのエースとして一時代を築き、力道山、ジャイアント馬場をも上回る25回連続防衛の記録を達成。国際プロレスとAWAの提携路線に乗って来日したブラックジャック・ランザ、レッド・バスチェン、バロン・フォン・ラシク、ダスティ・ローデス、クラッシャー・リソワスキー、ホースト・ホフマン、マッドドッグ・バション、エドワード・カーペンティア、ディック・マードックらの強豪を退けた。1972年1月27日の横浜文化体育館ではタイトルマッチ初の金網デスマッチでカーティス・イヤウケアを相手に防衛し、1973年7月9日の大阪府立体育館ではラッシャー木村の挑戦を受けて力道山時代以来の大物日本人対決を実現させている。同年11月9日にワフー・マクダニエルに王座を奪われるも短期間で奪還し、その後もビル・ワットを下して防衛を続けたが、1974年2月に小林はアントニオ猪木への挑戦を表明して国際プロレスを離脱、王座を返上する。
小林の離脱後、王座決定戦で木村を下したロビンソンが再び戴冠するが、タイトルはアメリカでスーパースター・ビリー・グラハムに移動。その後、IWA王者として初来日したグラハムを破ったマイティ井上の短期政権を経て、1975年4月19日に木村がバションを破り初戴冠を果たす。以降は木村の覇権が確立し、第14代王座戴冠時は小林の25回連続を上回る26回連続防衛を達成、金網デスマッチでも多くのタイトルマッチが行われた。挑戦者の顔触れもマイク・ジョージなどの例外はあるが、キラー・トーア・カマタ、ジプシー・ジョー、クレージー・セーラー・ホワイト、ワイルド・アンガス、アレックス・スミルノフ、キラー・ブルックス、オックス・ベーカー、モンゴリアン・ストンパー、ジョー・ルダックなど狂乱・流血タイプのラフファイターが多くなった。1979年にはアンドレ・ザ・ジャイアントとの防衛戦やボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座とのダブルタイトルマッチも行われたが、1981年8月9日、北海道・羅臼町大会を最後に国際プロレスは活動を停止し、IWA世界ヘビー級王座は実質的に消滅。途中、上田馬之助、スミルノフ、バーン・ガニアに短期間奪取されることはあっても、国際プロレス崩壊まで6年間にわたって木村時代が続いた。
最後のIWA世界タイトルマッチは、1981年8月6日、室蘭市で木村がジ・エンフォーサーの挑戦を受け、金網デスマッチで行われた試合であった。プロレス史上には大木金太郎のインターナショナル・ヘビー級王座のように団体崩壊後も崩壊当時の王者が個人的にベルトを保持して防衛戦を続けた例はあるが(猪木のNWFヘビー級王座もこれに近い)、王者の木村が身を寄せた新日本プロレスはIWGPを推進中で、猪木のNWF王座や坂口征二のWWF北米ヘビー級王座などの主要王座を返上・封印し、タイトルを極力縮小していた時期であり、国際プロレス版のIWA王座戦が出来る状況ではなかった。
IWAは、ヘビー級のシングル王座以外では、タッグ王座とミッドヘビー級王座を認定していた。軽量級のタイトルである後者を「ジュニアヘビー級」ではなく「ミッドヘビー級」と称したのは、国際プロレスの欧州路線の影響である。
なお、IWA世界ヘビー級王座の日本人王者による日本国外での防衛戦は1978年8月2日、韓国のソウルにて木村が梁承揮を挑戦者に迎えて一度だけ行われている。
ベルト自体は、初代はグラハムの王座奪取時まで使用され、2代目はグラハムが来日かつ東京12チャンネル(現:テレビ東京)『国際プロレスアワー』開始に合わせて新調された。
Wikipediaより
以下参考画像
レプリカ
海外製。
全長約1,290mm。
重量約3.5kg。
ストラップ本革。
収納ケース無。
刻印無。
IWA世界タッグ王座
IWA世界タッグ王座(アイダブリューエーせかいタッグおうざ)は、日本のプロレス団体だった国際プロレスが認定・管理していたチャンピオンベルトのひとつである。
概要
国際プロレスのタッグチーム・タイトルとしては、これ以前に1967年にアル・コステロ&ドン・ケントのファビュラス・カンガルーズを初代王者チームとして創設されたTWWA世界タッグ王座がある。1968年2月14日、豊登&サンダー杉山がカンガルーズからこのタイトルを奪取。ほどなくしてTWWA(トランス・ワールド・レスリング・アソシエーション)の設立者の一人であるグレート東郷が国際プロレスと決別、組織としてのTWWAも形骸化したが、同タッグ王座は以降も国際プロレスのフラッグシップ・タイトルとなり、翌1969年にかけて20回以上の防衛戦が行われた(挑戦者チームには、ビル・ロビンソン&トニー・チャールズ、スカイ・ハイ・リー&ジ・アウトロー、ジョージ・ゴーディエンコ&ジョン・ダ・シルバ、ゴーディエンコ&ピーター・メイビアなどがいる)。
その後、新たな統轄組織・IWA(インターナショナル・レスリング・アソシエーション)がTWWAに取って代わる形で発足。1969年5月18日にフランスのパリで開催された王座決定トーナメントの決勝戦で、豊登&ストロング小林がモンスター・ロシモフ&イワン・ストロゴフを破り初代王者チームとなった。
以降、ラッシャー木村、グレート草津、マイティ井上、アニマル浜口など国際プロレスの主力勢が戴冠。外国人チームが当時アメリカで保持していたタッグ王座とのダブルタイトル戦も行われ、1974年11月21日に大阪府立体育館で行われた木村&草津vsニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンスはAWA世界タッグ王座とのダブルタイトルマッチだった(1972年11月30日の茨城県立スポーツセンター体育館での小林&草津vsディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーはWWA世界タッグ王座とのダブルタイトルマッチとして行われたが、実際には当時のWWA世界タッグ王者チームはザ・ブラックジャックスであり、ブルーザー&クラッシャーは同王座を保持していなかった)。
1974年3月31日に釧路市厚生年金体育館で行われた木村&草津vsジム・ブランゼル&ザ・ブルート戦は初の金網デスマッチでの防衛戦となり、以降は金網デスマッチによるタイトルマッチも行われた[2]。1981年8月8日、北海道根室市での井上&阿修羅・原vsジェリー・オーツ&テリー・ギッブス戦が最後のタイトルマッチおよび最後の金網タッグデスマッチとなり、翌8月9日の国際プロレス崩壊とともに封印。
国際プロレスがAWAと提携していた1970年代前半は、ブルーザー&クラッシャーをはじめ、ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツ(ハリウッド・ブロンズ)、ダスティ・ローデス&ディック・マードック(テキサス・アウトローズ)、ジン・アンダーソン&オレイ・アンダーソン(ミネソタ・レッキング・クルー)、ニック・カーター&スウィート・ウィリアムス(ザ・キウィズ)、スーパースター・ビリー・グラハム&バロン・フォン・ラシク、そしてAWA世界タッグ王者チームのボックウィンクル&スティーブンスなど、当時のアメリカでもトップクラスの強豪チームが挑戦者として名を連ねている。
ベルト自体は、初代はTBS『TWWAプロレス中継』時代に使用され、2代目は東京12チャンネル(現:テレビ東京)『国際プロレスアワー』開始に合わせて新調された。
歴代王者
| 歴代数 | レスラー | 防衛回 | 獲得日付 | 獲得した場所 / 対戦相手・その他 |
|---|---|---|---|---|
| 初代 | 豊登 ストロング小林 |
4 | 1969年5月18日 | フランス・パリ ※トーナメント決勝でモンスター・ロシモフ & イワン・ストロゴフを破り獲得 ※1970年1月9日、豊登の国際プロレス退団により返上 |
| 第2代 | モンスター・ロシモフ マイケル・ネイダー |
0 | 1970年1月18日 | 福岡市九電記念体育館 ※サンダー杉山 & グレート草津との王座決定戦で獲得 |
| 第3代 | サンダー杉山 グレート草津 |
8 | 1970年2月3日 | 広島県立体育館 |
| 第4代 | ラリー・ヘニング ボブ・ウィンダム |
3 | 1970年11月19日 | 足利市月丘高校体育館 |
| 第5代 | サンダー杉山 グレート草津 |
4 | 1970年12月12日 | 台東区体育館 ※1971年6月29日、草津のアメリカ遠征により返上 |
| 第6代 | レッド・バスチェン ビル・ハワード |
1 | 1971年9月7日 | 大田区体育館 ※サンダー杉山 & ラッシャー木村との王座決定戦で獲得 |
| 第7代 | サンダー杉山 ラッシャー木村 |
7 | 1971年9月23日 | 諫早市体育館 ※1972年5月、木村のアメリカ遠征により返上 |
| 第8代 | グレート草津 ストロング小林 |
6 | 1972年7月7日 | 千葉県体育館 ※ビル・ミラー & バロン・マイケル・シクルナとの王座決定戦で獲得 |
| 第9代 | マッドドッグ・バション イワン・コロフ |
1 | 1973年4月18日 | 土浦スポーツセンター |
| 第10代 | グレート草津 ラッシャー木村 |
11 | 1973年5月14日 | 船橋ヘルスセンター ※1975年4月30日、木村のIWA世界ヘビー級王座獲得により返上 |
| 第11代 | グレート草津 マイティ井上 |
2 | 1975年6月13日 | 岩手県営体育館 ※トーア・カマタ & デューク・サベージとの王座決定戦で獲得 |
| 第12代 | ピエール・マーチン マイク・マーテル |
1 | 1975年11月3日 | 後楽園ホール |
| 第13代 | グレート草津 マイティ井上 |
5 | 1975年12月2日 | 横浜文化体育館(金網デスマッチで開催) |
| 第14代 | リップ・タイラー エディ・サリバン |
0 | 1976年6月7日 | 福山市民体育館 |
| 第15代 | グレート草津 マイティ井上 |
7 | 1976年6月11日 | 古河市民体育館 ※1977年1月4日、IWAワールド・タッグ・トーナメント開催に伴い返上 |
| 第16代 | ビッグ・ジョン・クイン クルト・フォン・ヘス |
0 | 1977年3月25日 | 横浜文化体育館 ※IWAワールド・タッグ・トーナメント決勝でアニマル浜口 & 寺西勇を破り獲得 |
| 第17代 | グレート草津 アニマル浜口 |
3 | 1977年3月26日 | 蔵前国技館 |
| 第18代 | ワイルド・サモアンズ (アファ & シカ) |
0 | 1978年1月5日 | 大阪府立体育館 |
| 第19代 | グレート草津 アニマル浜口 |
4 | 1978年1月20日 | 大田区体育館 |
| 第20代 | 山本小鉄 星野勘太郎 |
1 | 1979年1月21日 | 後楽園ホール |
| 第21代 | アニマル浜口 マイティ井上 |
11 | 1979年2月23日 | 千葉公園体育館(新日本プロレスの興行) ※1980年4月13日、浜口の負傷欠場により返上 |
| 第22代 | ストロング小林 永源遙 |
0 | 1980年6月29日 | 後楽園ホール ※マイティ井上 & 寺西勇との王座決定戦で獲得 |
| 第23代 | アニマル浜口 マイティ井上 |
5 | 1980年7月15日 | 富士市民体育館 ※1981年4月18日、浜口の病気療養により返上 |
| 第24代 | ポール・エラリング テリー・ラザン |
1 | 1981年5月4日 | 札幌中島スポーツセンター ※ラッシャー木村 & マイティ井上との王座決定戦で獲得 |
| 第25代 | マイティ井上 阿修羅・原 |
3 | 1981年5月16日 | 後楽園ホール(金網デスマッチで開催) ※1981年9月30日、国際プロレス崩壊のため封印 |
Wikipediaより
以下参考画像
レプリカ
海外製。
全長約1,250mm。
重量約2.5kg。
ストラップ本革。
収納ケース無。
刻印無。
AWA世界タッグチーム王座
AWA世界タッグチーム王座(AWAせかいタッグチームおうざ、AWA World Tag Team Championship)は、アメリカン・レスリング・アソシエーション(以下「AWA」と略)が認定するプロレスのタッグ王座の一つである。かつてはNWA・WWF(現WWE)とならび「世界三大タッグ王座」と言われていたタイトルである。
歴史
元々はバーン・ガニア率いるNWAミネアポリスで認定されたNWA世界タッグチーム王座の一つであったが、1960年にガニアがNWAから脱退してAWAを創立したためタイトル名を改め、NWA脱退前から(AWA創立時)の現NWA世界タッグチーム王者チームであったスタン・コワルスキー&タイニー・ミルズ組を初代AWA世界タッグチーム王者チームとして、そのまま継続して認定をした。
以降、ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーやロード・ウォリアーズなど、プロレス史に名を残す数々の強豪タッグチームが戴冠し、その権威を高めた。
日本でも、1970年代から1980年代にかけてのAWAの提携団体だった国際プロレスや全日本プロレスのリングにおいて、マッドドッグ・バション&ブッチャー・バション、ニック・ボックウィンクル&レイ・スティーブンス、グレッグ・ガニア&ジム・ブランゼルなどのチャンピオン・チームによって防衛戦が行われている。
AWA末期にはマーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズのミッドナイト・ロッカーズなど新世代のチームが戴冠したが、1991年のAWA崩壊に伴い封印された。
Wikipediaより
参考画像










































































