学外講評会 | だから構造家は、楽しい

学外講評会

構造エスキスを担当していた某研究室の4年生・M1生のスタジオ課題の公開学外講評会があり、クリティークとして参加してきました。


課題内容を大雑把にいうと、僕の事務所から比較的近くに実存する京都の市街地の2街区を対象に、昨年制定された景観法の意味を考えながら、建築なり町並みなり、何らかの提案を試みようとするもの。


講評の最後の総括で言った言葉は、もっと対象を見つめなさい、というものでした。

まぁ、課題が難しかったのでしょう。


選定されていた街区が、もはや京都とは呼べないような、手のつけようのないグダグダな街区でもあったので、デザインの手がかりとなるものがそもそも少ないという意味で難しかったのでしょうが、何が問題なのか、何を問題と感じたのか、という肝心な部分で彼らから伝わってくるものが少なく残念でした。


ひょっとすると、彼らにとっては、問題にすることに対し意味が感じられなかったのかもしれません。

「京大生なのだから、京都の景観や街のことを考えるのは当たり前だ」、だとか、「京都の景観を考えることは日本の都市景観そのものを考えることだ」、などと大上段に言われても、ひょっとすると彼らには「はぁ?」と、いうようなことだったのかもしれません。


こういう問題は、もっと見つめて、問題を自分の中に取りこんで、内側からエネルギーを発するように対峙しないと、およそ提案というレベルには到達しえません。4年生にとっては、これから卒業設計というこの4年間の総括的プロジェクトがスタートするわけで、単にカタチを提示するだけではなく、何が問題なのかを明らかにする部分をもっと大事に頑張ってもらいたいと思います。


しかしながら、僕自身も、あらためて、今の病んだ京都の実情をより深く見つめることができたのも事実です。


京都で建築をどうつくるかということは所詮はローカルな問題でしかない、あるいは、建築実務者として「LOVE京都」という立場でいることは、もはやマイノリティでしかない、と感じることは、単純につらく寂しいことでもあるのだけれども、共有意識を持ちえない人までをも巻き込んでまで脱マイノリティを目指したところで、話が拡散してしまうだけで仕方のないこと、という気持ちもあります。

徹底的に京都で物事を考えて、結果として提示される「京都モデル」というものが、同じく病んでしまった日本の各都市の再生に貢献できれば良い、というような思いをもちながら頑張っていくしかありません。

少なくとも『景観法による制約』という一つの方法が行政側から提示されているわけで、まぁ、問題と感じる部分もたくさんあるのですけれども、だからと言ってそれが建築や都市をダメにする、ということは決して無いハズで、冷静に取り組んで、良い成果を得ながら、かつ、改善すべきところを発見できていければ良いと今は思っています。



総括の中に、今の病んだ実情をよりはっきりと把握させてくれ、こまで以上に考えるきっかけを与えてくれたことに対するお礼を付け加えることを忘れてしまっていたことに、いまさら気付いてしまい反省しています。

たとえ今回うまく結果が出せなかったとしても、大きな敷地模型作りや調査のための街歩きなど頑張り話の土台作りはきちんとできていたわけで、学生たちの中にこのブログを見ている人がいたら、そういう感謝の気持ちももっているということを知っていてください。