人生の転機、というと大袈裟だが | だから構造家は、楽しい

人生の転機、というと大袈裟だが

昨日の講演会ではないが、伊東さんやボスみたいに悟りを開かれてしまうと、その後に僕らが何をやっても、御釈迦さんの掌の上でちょろちょろ動き回っているだけなんじゃないか?と思ってしまう。

今のやり方のままでは、ホントにその通りにしかならなんのじゃないかと。僕にとっては『深い』問題だ。

このままでは「ミニボス」というか「コムツロウ」で終わってしまう。

確実に見習っておくべきボスイズムがあるのは事実だし、それは永遠に持ち続けてよいとも思っている。

よそ様に「コムツロウ」と呼ばれるほどになれれば、それだけでも十分に飯は食っていけてそうな気はするのだが、何か違う。嫌だ

ボスは木村先生の呪縛を自力で乗り越えた、と言っている。

僕もいつかボスの呪縛を自力で乗り越えたい。

しかし、そのためには、今のやり方では、どうにもダメなのだ。

決定的に不足しているものがある。。。

 

などと思っていると、母校から一通のメールが届いた。

人生には転機があるというが、その一種かも知れない。

 

嫁とも相談しなくては。

もちろん、ボスにも相談せねばならないことでもある。

 

なにかと忙しい6月となりそうだ。