茶経成立への一考察 その⑩ 第9章  歴史的文献から『茶経』成立への推理       | 俳茶居

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       義仲寺や秋立つ空に塚二つ (呑亀〉

 

我が家の鉄線花(2022年4月撮影)

 

第9章  歴史的文献から『茶経』成立への推理

    皮日休、欧陽脩、陳師道、封演の取り上げた『茶経』とは 

 陸羽は「陸文学自伝」のなかで「茶経三巻」を紹介しており、自伝が書かれたとされる761年には、すでに「茶経三巻」は書かれていたとしている。しかしその「茶経三巻」と、現在私たちが読むことの出来る『茶経』は、同じものであるのか検証が必要ではないかと考える。

 

―――晩唐の詩人・文学者、皮日休(ひ じつきゅう833?~883)の「茶中雑詠」に、 

   「季疵(陸羽)始めて経三巻を為るや、是れより其の源を分ち、其の具を製し、其の造を教え、其の器を設け、其の煮を命じ、これを飲む者をして、痟(しょう=頭痛)を除きて、癘(えやみ=流行病)を去らしめ、疾医と雖もこれを知らざるなり。」とある。(「陸羽『茶経』の研究」46頁)

陸羽の時代から一世紀先の人、皮日休が目にした「茶経三巻」とは、どんな書物であったのか。

   私達が現在みている『茶経』は、南宋咸淳間(1,265~1,274年)に刊行された「百川学海」(南宋の左圭〈さ けい〉によって編纂された漢籍叢書全177巻。)に収められたもので、『茶経』研究者のほとんどが原本のように扱っているものである。そして、現在残されている最古の『茶経』刊行本である。実際に陸羽が書き起こした肉筆の『茶経』や、その後「百川学海」刊行までに書き写し残されたものや刊行された物は現存していない。

 上記の皮日休の言葉には、・・・これを飲む者をしてまでが「茶経三巻」の内容説明となっており、それは彼が手にした『茶経』の説明であり、「百川学海」版の「茶経三巻」全体を指してはいないとも言えるのである。皮日休が手にした『茶経』を手に取ることは出来ないが、「・・・これを飲む者をして」と「六之飲」の説明で終わっており、何故「七之事」から「十之図」までの説明がないのだろうと疑問に思うことは自然である。ただもっと自然なことは、皮日休が手に取った『茶経』は、「六之飲」で終わっていたということではないだろうか。即ち、皮日休が手にした『茶経』は、「一之源」・「二之具」・「三之造」を巻上、「四之器」を巻中、「五之煮」・「六之飲」を巻下とし完結していたと言えないことはないのである。

  

蓼科『喫茶茶会記クリフサイド』の窓辺(撮影T.W.さん)

 

―――北宋 欧陽脩(おう ようしゅう1007~1072年 北宋の政治家・詩人・文学者、歴史学者。唐宋八大家の一人)は、「新唐書」を編纂し、『茶経』について触れている。

   「羽(陸羽)茶を嗜み、経三編を著し、茶の原、の法、の具を言いて尤(もっと)も備り天下益ます飲茶を飲むことを知れりと。」(「陸羽『茶経』の研究」158・159頁)

   欧陽脩が手に取った「経三篇(「茶経三巻」と理解する)」とは、どんな構成の書物であったのか。彼の生卒年から、皮日休と同様に、南宋咸淳年間版「百川学海」版はまだ世に出ていない。「・・・天下益ます飲茶を飲むことを知れりと。」で終わる説明から、欧陽脩が見た「経三編(茶経三巻)」には、「茶経七之事」以下が掲載されていたのだろうか。欧陽脩の時代は、陸羽の時代より250年後、「六之飲」の表現で終わる言葉から、彼が実際に見た「茶経三巻」も、どのような構成になっていたのか気になる所である。

 

―――北宋 陳師道(ちん しどう1,053~1,102年 北宋の詩人・政治家。徐州彭県の出身)が残した「茶経序」に書かれていることは示唆に富んでいる。

  「陸羽『茶経』は、家伝一巻、畢(ひつ)氏、王氏書三巻、張氏書四巻、内外書十有一巻。其文繁簡素同じからず。王畢氏書は繫雑にして、意(おも)うに其れ旧文ならん。張氏書は簡明にして家書と合いし、而して脱誤多し。家書は古に近く考正すべきも、七之事より、その下亡ず。乃ち三書を合して以ってこれを成し、録して二篇と為し、家に蔵す」(「陸羽『茶経』の研究」118頁)

   つまり陳師道は、自分が目にしたものは都合11種類の『茶経』であったと記している。そして、家に伝わっていたものは、一番古いようだが「七之事」以下は掲載されていないものであったとしている。

  皮日休、欧陽脩、陳師道の言葉から、彼らそれぞれの時代に流通していた『茶経』(手書きか、現残しない刊行物か)には、構成が違うものがあったと言えるのではないか。「七之事」以下が掲載されていない『茶経』があったと言えるのでないか。もちろん、上記三人の生きた時代は、現代の研究者が原本としている、南宋咸淳年間百川学海版『茶経』は世に出ていない。

近所の花水木

 

―――封演「封氏聞見記」の記述より

    唐代 封演(ふう えん 生卒不明)唐代陸羽と同世代の人、「封氏聞見記」十巻を撰した。「封氏聞見記」の巻六「飲茶」は、含蓄のある文章である。陸羽と同時代の人、『茶経』成立に見過ごせない言葉も出てくる。以下「茶道古典全集一巻」より引用する。

  「茶は、早く采(つ)むのを茶といい、晩(おそ)く采むのを茗という。本草には『渇きを止め、人を眠らせない。』とある。南方の人が好んで飲み、北方の人は初めは多く飲まなかった。開元(713~741年)中に泰山の霊巌寺の降魔師が禅宗を興(さか)んにした。座禅の時は、寐らにないようにし、また夕食もとらないが、すべて茶を飲むことだけは許している。そのため禅寺の人はめいめい懐中に持っていて至る處で煮て飲み、これより轉じて一般のひとがたがいにならいあって、遂に風俗となった。鄒(すう)・齊・滄・棣(たい)などの州より、だんだんと京邑(みやこ)にまで及んできた。城内の市の店舗を開いて、茶を煎(あぶ)つて賣り、道に志す人、俗人を問わず、銭を出して飲むようになった。その茶は、江淮の方面よりはこび、舟も車もひっきりなしで、いたるところ山と積まれて種類も大層多い。

  楚の人の陸鴻漸が茶論をつくり、茶の効能や、茶の煎(い)りかた、煮(あぶ)りかたを説き、茶道具二十四器を造つて都統籠(ととうろう=都籃)に入れて貯えた。遠近の人が陸鴻漸を傾慕し、好事の者は家に茶論一副を蔵した。常伯熊という人があって、鴻漸の論に因つて廣く潤色したので、茶道が大いに流行するようになり、王公、朝士、で飲まないものはなくなった。」

   ここまでの文章だけでも、陸羽や封演の時代のお茶が彷彿とさせられる。要約は以下である。

〇 お茶が流行するきっかけの一つが仏教僧の修行であったこと。

〇 長安や洛陽では、市の店舗で売られていたこと。

〇 お茶は江淮(長江や淮水)沿いの産地から、舟や車で都市に運ばれ、各所に山のように積まれていて、種類もたくさんあった。

〇 鄒(すう山東省)・齊(山東省)・滄(河北省)・棣(たい山東省)州に伝わり、さらに京邑(みやこ)に伝わっていった。

   このことはお茶の産地と、都市で流行しただけでなく、お茶の産地ではない地方にも広がっていったと理解できる。そこで陸羽の茶論(『茶経』)が世に出て教則本となった。常伯熊(じょうはくゆう)が、『茶経』を啓蒙・宣伝して更に流行が進んだと当時を伝えている。「封氏聞見記」では、『茶経』の構成については、「四之器」と分かる表記で終わっており、その先は書かれていない。封演が見た『茶経』の全構成は釈然としない。

 

緑茶の茶席

 

   この文章で興味を持たせたのは、お茶好きは家に茶論(『茶経』)を一副所蔵したとの表記である。お茶好きはまず書き写し勉強したのだとわかる。陸羽の茶道を信奉した常伯熊以下、お茶好きはこぞって書写に励んだのである。「茶経十之図」の言葉は、書写の奨励文でもある。私達現代人が見ている最古の百川学海刊行版『茶経』の刊行された時代には、最早改訂する権利を持つ陸羽は世になく、構成も内容も確定されたものが刊行されたと理解される。当然「十之図」には、「一之源」より「九之略」までを白絹に書き写せば、「『茶経』の始終が整うこととなり」、しっかり茶道に励むべしとなっていたと考える。しかし陸羽が『茶経』を完成させる過程においては、自筆の初稿に改訂を加えて行ったのだと理解すべきであろう。陸羽の時代印刷技術はあり、陸羽はどこかで刊行していたかもしれないが、その物自体や史実にも残されていない。紹介した歴史的文献から、『茶経』は一つ(一度だけ書かれたもの)ではなかったと理解するようになった。   

考えられる『茶経』の版とその構成は以下である。

①  陸羽が最初に手書きした『茶経』(陸文学自伝にある「茶経三巻」)。

②  陸羽が必要に応じ改訂した『茶経』(一度ではないと考える)。

③  陸羽が最後に改訂した、決定稿『茶経』。

④  ①、②、③をもとに、大勢の人たちが書き写し残した自分用の『茶経』。

  これらを想定して『茶経』の成立と変遷を考えるべきであろう。①~④どれも『茶経』であることに間違いない。ただ大方の研究者が①に執心するのは当然である。③が、私達が手にすることの出来る百川学海刊行版であってほしいと願いたいが、何とも言えない。やがて陸羽が監修した決定稿による唐代『茶経』刊行本(もし作られていたとしたら)が発見される日が来ることを祈りたい。

   封演は「封氏聞見記」の中で『茶経』と思い当たる書き物を『茶論』と表記している。現代の研究者は、封演の『茶論』を『茶経』ではないという者はいない。では何故『茶論』と表現したのか。封演は『茶経』は陸羽に所属するものとし「論」のもつ一般性を「茶」の後に繋げたかったのではないか。ほかの人が違う「茶論」を書いたとしても、『茶経』は陸羽だけのものと尊崇の気持ちを込めて取り扱ったのだと理解したい。

  封演の「封氏聞見記」の巻六「飲茶」は以下の続きがある。

  「御史大夫(ぎょしたいふ)の李季卿江南を宣慰して、臨淮の縣館に至った。或る人が伯熊(はくゆう)が茶をうまく立てることを言ったので、李公がこれをたのんだ。伯熊は黄被衫(こうひさん)を著け、烏紗帽(うしゃぼう)をかむり手に茶器を執り、口で茶の名前を言いあて、みわけて指示した。左右の者はこれに刮目した。茶ができあがると、李公は二杯までのんだ。江南に至ると、鴻漸の茶がうまいと言うもうがあった。そこで李公はふたたびのんだ。鴻漸は身に野人の服を衣(き)て、茶の道具をもって入ってきた。坐せば、攤(ひら)くこと伯熊のした通りに教えた。そこで李公は心に鴻漸を軽蔑した。茶が畢(おわ)ると、奴隷に命じて三十錢を與えて、煎茶博士の報酬とした。鴻漸は大江の介(ほとり)に遊び、名流の人々に狎(な)れ親しんだが、此の羞愧(はずかしめ)を受けると、また『毀茶論』を著わした。伯熊は茶を飲み過ぎて、遂に風疾に患(かか)り、晩年は人に多飲を勧めなかった。」

  この話は研究者の間で有名である。陸羽が著わしたと言われる「毀茶論」は、本当に書かれたのか。現在に残されていない為、事の真意は分からない。著者封演は、常伯熊と同じ茶芸を後から演じた陸羽が平服であったために、李季卿は自分に対し無礼な振る舞いと思い認めなかったが、封演はそこにこそ「倹徳」を旨とする陸羽茶道の肝要があると言いたかったのだと推察する。それを不愉快に思った李季卿の狭量を揶揄した文章と理解したい。文中、「李公は二杯まで飲んだ」とあるのは、陸羽が『茶経』「一之源」で触れた「倹徳」の考えを教授したからかもしれない。

高橋忠彦先生『茶経・喫茶養生記・茶録・茶具図賛』の「茶経五之煮」の訳文を拝借する。

  「茶の本質は倹(質素を貴ぶこと)であり、むやみに大量の茶を煮てはいけない【茶の性は倹にしてよろしく広むべからず】」

と、「一之源」と「五之煮」に出てくる「倹」の言葉が『茶経』の重要なキーワードであると、常伯熊は李季卿に、著者封演は読者に伝えるべく取り上げていると思えてならない。ただここでは、李季卿(?~767年)が実在の人物で、江南を宣慰したのは763年~764年と新・旧唐書にあり(「陸羽『茶経』の研究(沈冬梅)」111頁)、その歴史事実を採用すれば、『茶経』成立時期の考察に有用である。

*763年~764年、李季卿江南を宣慰

*常伯熊は李季卿に会うまでに『茶経』を手に入れ、学習し、陸羽茶道を習得。

 もし最短で763年の初めに宣慰で会っていれば、762年中に陸羽茶道を習得していなければならくなり、『茶経』も常伯熊の習得時間を含め、762年のしかるべき時迄に成立していなければならなくなる。ここで思い出してほしい。『茶経』「四之器」にある風炉の三脚の足の一つに焼き込まれた文字には、「聖唐滅胡明年鋳」(風炉は、唐が安史の変を平定した翌年鋳造した。)と書かれていたことである。「聖唐滅胡明年鋳」の解釈に整合性を持たせるには、前掲の布目先生の説を肯定しなければならない。もし、『茶経』に書かれた風炉鋳造年を歴史上「安史の変」が終結した翌年(764年)とすれば、『茶経』成立はそれ以降となり、常伯熊が李季卿に会う前に『茶経』を手にし、学習することは不可能に近くなり、「陸文学自伝」に記されている「茶経三巻」の言葉は消えていなければならなくなるのである。陸羽が「陸文学自伝」を著わした時期は、封演の「封氏聞見記」からも推測できるのである。

懐かしい家具が並ぶ茶会記クリフサイド室内

 

   常伯熊は淮南の地に居ながら、李季卿が訪ねてくるまでの短期間に陸羽『茶経』を自ら書き写して(あるいは書写を誰かに頼み)手に入れ、陸羽茶道を独学で習得したと言える。それほどこの時代お茶が全国に迄普及し、陸羽の茶道が流行したと理解してよい。ただ封演が「封氏聞見記」を書くために資料とした『茶経』、常伯熊が李季卿に表演する時手本にした『茶経』、どちらも書き写したものだと考える。取り上げた歴史的人物の中で、陸羽に一番近いのは封演であろう。彼の話から『茶経』の刊行本の話は出てこない。その後の人、北宋の陳師道が見た11種類の『茶経』も刊行本ではなさそうである。歴史の隙間に、唐代『茶経』の刊行本が埋もれていないかと、夢想するのは私だけであろうか。

 

   763年(広徳元年)は、2月に8年に及んだ安史の変が実際に終わった年。唐王朝も762年より粛宗の病死のあと息子の代宗の時代に代わっている。李季卿達役人の地方宣慰も、時代が明るさを取り戻しつつあるこの時期盛んにおこなわれたと推測できる。陸羽はその後名声を得、湖州を中心に各地を訪れお茶の研究を重ね活躍する。その成果は『茶経』を改訂することで生かされたと考えたい。

   773年(大暦8年)正月、顔真卿が湖州刺史として赴任。彼が長安の都へ刑部尚書として中央復帰する777年8月(大暦12年 外山軍治「顔真卿」より)までが、陸羽の人生の中で一番恵まれた時代であったと思える。顔真卿は陸羽の理解者であり、スポンサーでもあった。顔真卿が「韻海鏡源」編纂のため声をかけた文人墨客たちと、時を選び顧渚山へ登り茶作りに励んだり、太湖に舟を浮かべ、季節の花と月を愛でながら連歌を詠み、そしてお茶を美味しく飲みながら心通わせたに違いない。   (続く)

 

烏龍茶の設え