『茶経』成立への一考察 その⑧ 第7章『茶経』に書かれていることから『茶経』成立年の推理 | 俳茶居

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第7章  『茶経』に書かれていることから『茶経』成立年の推理

    「四之器」の風炉の三脚の足の一つに焼き込んだ言葉からの推理

  

近所の花水木(2022年4月13日撮影)

 

   「四之器」、風炉の三脚の足の一つに焼き込まれた文字「聖唐滅胡明年鋳」(風炉は、唐が安史の変を平定した翌年鋳造した。)は、『茶経』成立可能時期を示している。布目先生は「滅胡」(安史の変が終わった時)の解釈をめぐり持論を展開されている。もしも『茶経』の書かれたのが、歴史上安史の変が終わった763年(その場合、風炉鋳造は764年)以降であったとしたら、761年に書かれたとされる陸文学自伝には、「茶経三巻」の言葉は載らないからである。布目氏の推理は、「滅胡」の年の解釈を、安史の変を避け都落ちをしていた皇帝粛宗、上皇玄宗が長安へ戻った年(757年)としたことにある。唐代の詩人元結はその時、「大唐中興頌」を作りこの年を唐の中興の年としたことなど、滅胡の年の根拠とした(「茶経詳解」353頁)。「聖唐滅胡明年鋳」は、757年の翌年758年に風炉が作られたと理解できるのである。即ち758年以降でないと『茶経』は成立しないと推理出来るのである。 (続く)

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