2018年8月10日の記憶 | 俳茶居

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       義仲寺や秋立つ空に塚二つ (呑亀〉

2018年8月10日の記憶

旧海軍兵学校大講堂(2018年7月26日撮影) 

 

毎年8月15日近くになると、この国の戦争(特に第2次世界大戦)の惨禍に想いが行く。新聞・テレビなども特集記事や番組が多くなる。8月6日広島、9日長崎と重要な日が続く。8月15日の敗戦の日まで、私はこの一週間の現代史を振り返り反芻している。猛暑の続く中、小さな旅に出た。

2018年7月広島の江田島を訪れた。戦前は海軍兵学校の島として有名であった。亡くなった義父が同校の75期生であったことが訪れた理由だ。建物は現在も自衛隊の教育施設として使われており、その威容は往時を彷彿とさせている。義父の所属した75期は、翌年の卒業を待たずに兵学校の閉鎖が通告され、昭和20年(1945年)10月散会となった。見学コースがあり、団体でなければ予約なしで一日3回、約1時間半のコースを係官が案内してくれる。又卒業生の関係者は、その旨を伝えると、その期の大集合写真から、関係者が写っている部分を焼き増しし、記念にと贈呈される恩恵に与ることが出来る。20歳の義父の写真と対面した。義父は寡黙な人であった。戦争時代の事などまず話す事はなかった。ただ印象的な言葉がいまも残っている。昭和20年8月6日の朝、広島市の方角にきのこ雲が広がっていく様を見た話だ。江田島は呉軍港の向かい側に位置する。距離が離れていたため原爆の直接の被害は免れた。73年前の江田島の8月、やがて閉校となる海軍兵学校の校庭にいた学生たちの心中を想像していた。そして、海軍兵学校最後からひとつ前の校長井上成美の話を思い出した。彼は海軍兵学校の教育カリュキュラムに、英語授業を周囲の反対を押し切り残した。井上はすでに戦後を意識し、英語(当時は敵国言語として陸軍士官学校始め、大方の学校教育から消えていた)教育の重要性を認識していたからである。煉瓦造りの本館と鉄骨煉瓦積み・外壁花崗岩張り大講堂は、戦禍から免れ往時の光を今も放っている。   

井上成美

  

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