人魚の眠る家
東野圭吾
2022/08/17
★ひとことまとめ★
脳死について深く考えさせられます。
↓以下ネタバレ含みます↓
作品読みたい方は見ないほうがいいかも
【Amazon内容紹介】
答えてください。娘を殺したのは私でしょうか。
愛する人を持つすべての人へ。
感涙の東野ミステリ、待望の文庫化。
【感想】
先日浴衣レンタルして浅草に行ってきました
かき氷やさんでかき氷食べました~
ヨーグルトベースのソースがかかっていて、さらにフルーツソースをかけていただくのですが、さっぱりしていておいしかったです
ヨーグルトソース自体が甘くて美味しかった
(お店はこちら→サクラ咲さん)
大正レトロがテーマのスイーツ屋さんにもいきました
さて、今回の本ですがこちらもお客様に以前頂いた本です
東野圭吾さんの本は学生の頃結構読みましたが、いかにもミステリー小説!って感じの作品ばかりだったので、
今回の作品もミステリーなのかな?と思って前情報なしに読み始めました
ジャンルはミステリーで、確かに謎が解かれる部分もあるのですがそれはおまけ程度で、
基本的には始めから終わりまで子供の「脳死」をどう受け止めていくか、というお話でした。
ある日突然自分の子供が事故に合い、脳が機能しない状態に陥ってしまったら…
和昌は、株式会社ハリマテクスの3代目社長。
ハリマテクスは、脳と機械を繋ぐことで人間の生活を大きく改善させるための研究を行っており、障害者支援分野に力をいれている。
8年前に結婚し、妻の薫子、長女の瑞穂、長男の生人との4人家族だ。
しかし、和昌の不倫が薫子に知られてしまったことで夫婦仲は冷え切り、現在は別居中である。
瑞穂の小学校受験が終わるまでは良き両親を演じ、一段落したら離婚することになっていた。
受験の際の両親面接練習のため久しぶりに夫婦が再会したある日、薫子の実家から「瑞穂がプールで溺れた」という連絡が入る。
急いで病院に向かった2人だったが、そこで医師から伝えられたのは「意識が戻らず、脳波は平坦で、脳が機能している様子もない」という残酷な現実だった。
現時点では「脳死」とは言えない。
2度の脳死判定を行って初めて「脳死」の診断が下される。
「脳死」となった場合にドナーとして臓器提供するかなどについて説明を受けるも、ギリギリの段階で2人は娘の延命を選択する。
脳が機能していればハリマテクスの技術が活用できるが、娘の脳は機能していない。最新技術を持ってしても、娘を救うことはできない。
深い虚しさに襲われる和昌であったが、
ある日の研究結果報告会で、自発呼吸のできない被験者が、横隔膜ペースメーカーを埋め込んだことで人工呼吸器無しに呼吸ができるようになったという話を聞き、その技術に詳しい研究員・星野から詳しく話を聞くことになった。
難しい手術ではあるが、成功すれば、体内に数ヶ所電極を埋め込むだけで、電気信号で筋肉を動かし呼吸ができるようになる。
和昌は早速この手術について薫子に話し、2人は瑞穂に横隔膜ペースメーカーの手術を受けさせることを決断した。
手術が成功し瑞穂の容態が安定したことで、薫子は自宅で瑞穂を介護することに決める。
手術により呼吸はできるようになった瑞穂だが、寝たきりの状態なので日に日に筋肉は衰えてゆく。
そんな瑞穂に対し薫子は、いつか瑞穂が目覚めたときに、自らの足で歩ける状態にしてあげたいと考えるようになる。
和昌はそんな薫子の気持ちを汲み取り、星野と星野の研究を薫子に紹介する。
脊髄に沿って取り付けた複数個のコイルに電気信号を送ることで、筋肉を動かすことは可能である。
そのため瑞穂のように脳が機能していない人でも、コイルに電気信号で指示を送ることで筋力トレーニングを行うことができる。
やるかどうかを和昌に問われた薫子は、やりたいと答える…
人はどのような状態ならば、生きていると言えるのか?また、死んでいると言えるのか。
脳死の診断は下されていないが、脳死判定を行えば恐らく脳死の診断が下される場合、
その患者は今「生きている」と言えるのか。
脳が機能していない人間を、電気信号により動かすことは非道徳的なのか?
どんな状態でも良いから、子供に生き続けてほしいと願うことは、親のエゴなのか…?
脳死について、自分は全く知識がなかったなと気付かされました。
まず、何を持って脳死となるのかすら知らなかった
普通自動車免許を持っているので、裏側に臓器提供意思表示の記入欄があることは何となく知っていましたが、実際に自分がどんな状況になった時に効力を発するのかまでは考えたことがありませんでした。(脳死となったらはわかっていたけれど、じゃあ脳死って?は知らなかったです)
作品の中では、薫子の行いをよく思っていない人もいました。
「フランケンシュタインを作ろうとしている」「フランケン以下」
「意識のない人間の身体を使って、自己満足に浸ろうとしている」
「死体を使っての実験」
「自分の気休めのために娘の身体を玩具にしているだけ」
けれど、それは第三者だから言えることなんだと思います。
当事者になってみないと、絶対に薫子や和昌の気持ちをわかることはできない…。
機械に頼っていたとしても、心臓が動いていて呼吸をしていて、血色も良いうちは自分の子供が「死んでいる」なんて、誰も思いたくないと思うし、受け入れられないと思います。
一番ズシンときた部分は、この部分。
「今、我が家に……うちの家にいる娘は、患者でしょうか。それとも死体なのでしょうか」(P354)
「わかりません。たぶん、この世の誰も決められないんじゃないでしょうか」(P355)
法律でたとえ決められていたって、心臓が動いていて呼吸もしている人間を「生きている」か「死んでいる」か判断の出来る人間はいないでしょうね。
薫子が、じゃあ今瑞穂を殺したら殺人罪になるのかという質問をしていますが、その場にいた警察官でさえこの質問には答えられませんでした。
たとえ脳死判定前後で身体に何の変化がなかったとしても、
脳死判定が下されたあとならば、法律上は「死体」として扱われるので死体損壊罪に。
脳死判定が下されるまえならば、法律上は「生きている」ので殺人罪に。
薫子が、なぜ、おかしいと感じる気持ちもわかります。
もし自分自身や、身近な人が同じような状況になった時、どう思うのだろうか。
臓器がどこかの誰かに提供されることで、一部だけれどどこかで生きているって思えるのだろうか。
それとも、きれいなままで見送りたいと思うのだろうか。
もし自分が脳死判定されたときに、自分の臓器が誰かの役に立てば…という気持ちもあるけれど…
仮に自分が臓器提供の意思表示をしていた場合、そのことを知らない家族は戸惑うというか心の準備ができず受け入れられないかもしれないだろうし…。
けれど、日本国内にはドナーを待ちわびる多くの患者さんがいるものの、日本国内で臓器提供を受けられないから高額な費用を支払って海外に行くしかないという現実もある。
誰が正しくて誰が間違っているとも私は思いませんが、不慮の事故や難病が少しでも世の中から減ったらいいのにな、とは思います
テーマとしては重いテーマでしたが、普段考えることのなかったテーマだったので、深く考えるきっかけになりよかったです。
そして東野圭吾さんなので、重いテーマでも重すぎず読みやすくてよかったです