60冊目:エンド・オブ・ライフ | 【読書感想文Blog】ネタバレ注意⚠

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読んだ本の感想とたまーに日常( ᐛ )

エンド・オブ・ライフ

佐々涼子

2021/08/30

 

 

 

★ひとことまとめ★

十人十色の、人生の閉じ方。

 

 

 

↓以下ネタバレ含みます↓

作品読みたい方は見ないほうがいいかも

 

 

 

【Amazon内容紹介】

全国の書店員が選んだ「Yahoo!ニュース|本屋大賞 2020年 ノンフィクション本大賞」受賞作

ベストセラー『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』の著者が、こだわり続けてきた「理想の死の迎え方」に真っ正面から向き合った。
2013年に京都の診療所を訪れてから7年間、寄り添うように見てきた終末医療の現場を感動的に綴る。

「命の閉じ方」をレッスンする。

200名の患者を看取ってきた友人の看護師が病を得た。「看取りのプロフェッショナル」である友人の、自身の最期への向き合い方は意外なものだった。
残された日々を共に過ごすことで見えてきた「理想の死の迎え方」とは。
在宅医療の取材に取り組むきっかけとなった著者の難病の母と、彼女を自宅で献身的に介護する父の話を交え、7年間にわたり見つめてきた在宅での終末医療の現場を静かな筆致で描く。
私たちに、自身や家族の終末期のあり方を考えさせてくれる感動ノンフィクション。

佐々涼子(ささ りょうこ)
ノンフィクション作家。1968年生まれ。神奈川県出身。早稲田大学法学部卒。
日本語教師を経てフリーライターに。
2012年、『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』(集英社)で第10回開高健ノンフィクション賞を受賞。
2014年に上梓した『紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』(早川書房)は、紀伊國屋書店キノベス第1位、ダ・ヴィンチBOOK OF THE YEAR第1位、新風賞特別賞など数々の栄誉に輝いた。
2020年、『エンド・オブ・ライフ』(集英社インターナショナル)で第3回Yahoo!ニュース|本屋大賞 2020年 ノンフィクション本大賞を受賞。

 

 

【感想】

先日ファイザー2回目接種しました!

ファイザーは副反応が低いと聞いていたので、熱も出ないし大丈夫だろうなと思っていましたが、予想よりキツかったですゲロー

私に出た副反応の症状としては、

 

■打ってから12時間後くらい

・寝られないくらいの頭痛

・寒気(熱ないのに)&ほてり

・脇の下リンパ激痛

・首リンパ痛み

・目がめっちゃ痒い

寝られずに夜中起きてしまい、痛み止め飲んで寝ましたショック

 

■打った翌日

・脇の下の腫れ

・発熱(37.8℃)

・目の痒み

・節々の痛み

痛み止め飲んでほぼ1日寝てましたショボーン

 

■打った翌々日

・脇の下の腫れ

・目の痒み

・腕の腫れ、赤み

モデルナアームは聞きますが、ファイザーでもなるんですね。

目の痒みは謎なんですが、ハウスダストとか花粉症などのアレルギー持ちなんですが、その痒みですね。ワクチンによるものなのか、なんなのかわかりませんがめっちゃ痒いです。

 

ワクチン接種には賛否両論ありますし、打った数年後どうなるかもわかりませんが、私はいつ死んだってまあ仕方ないなと思っているので接種しましたキョロキョロ

打ちたくない人は打たないでも別にいいと思うんですよね。

ただその代わり、打ちたいと考えている人の予約を勝手に取り消したり、冷蔵庫のプラグを抜いたりなどはしないでほしいな~と思いますアセアセ

 

 

 

さて、今回の本は半年くらい前に書店で見かけて、読みたいなーとメモしたままずっと読んでいなかった本です。

 

コロナが流行して、芸能人のかたが感染して亡くなってしまったりして、死というものがより身近に感じられるようになりました。

もし自分の余命がわかったら、自分は死ぬまでにどんな生き方・考え方をするのだろう?

余命を宣告され、人生を終えていった人たちはどんな生き方をしたのだろう?

そう疑問に思い、こちらの作品を読みました。

 

ノンフィクションライターの著者が、何らかの理由で在宅医療にシフトした患者さんたちに対し、訪問看護を行う渡辺西加茂診療所で取材をした内容が書かれています。

 

これまで200名もの患者さんを看取ってきた訪問看護師・森山。彼はちょっとした体調不良から検査をうけたところ、癌が見つかり、手の施しようもない状態まで癌は進行してしまっていた。

看護し看取る側から、看護され看取られる側になった森山。彼は何を思い、どう病と向き合い、余生を過ごすのか。

 

著者自身は、子供の頃から親の転勤のため引っ越しを繰り返していたため「ホーム」と感じられる家がなかった。そのため、在宅医療に対しても否定的な考えを持っていた。

彼女にとって家は仕事場であり、休む、落ち着く場所ではなかった。そのような場所で介護されたいか?いくら家族だからと言って、下の世話までしてもらうのか?それなら、入院して看護師にビジネスライクに対応してもらうほうがよっぽどましだ。

そんな彼女の考えも、渡辺西加茂診療所の訪問看護に同行し在宅医療の現場の生の声を聞くことで、自身の母の介護を経験することで、森山の最期の時間を共に過ごすことで、少しずつ変わっていく。

 

 

まず、エンド・オブ・ライフとは?

終末期。疾病などからの回復が望めず、早々の死が避けがたくなった状態。また、その時期。(参照元)

自身の命が、終わりに差し掛かった段階ということです。

 

 

 

この作品を読んで感じたことは、どんなに看護のプロとして数え切れないくらい患者さんのケアを行い看取って来たからと言って、自分が同じ立場になったとき落ち着いて自分に対しても対処ができるかというと、それは難しいということです。

当たり前ですが誰しも死ぬのは一度きりで、初心者です。練習もできず、最初で最後です。先人たちに聞くこともできない。

未知のものは誰だって怖いに決まってます。人それぞれ置かれた環境も違い、死に方に答えもありません。

右も左もわからない状況の中、毎日もがきながら生きるのは誰でも同じなんだと感じました。

 

看護師ということで、この症状だと自分の余命は残りこのくらいだ、と具体的にわかってしまうというのはいい事なのか悪い事なのか…

プロだからこそ、自分の余命も正確にわかってしまうというのは、なんだか精神的にきつそうだなと感じました。

 

 

著者のお母さんが病院に入院されたときのお話は、看護師さんに苛立ちましたショボーン

 

仕事だから。マニュアルにそう書いてあったから。その通りやるだけ。

患者さんに感情を持って接していたら、自分の精神が持たないくらい余裕がないんでしょうか。。。

今なんてコロナ禍なので、なおさらだと思います。。。

人に思いやりを持てないくらい、余裕がないんだろうなと思います。

けれど、自分が患者側だったら。自分の大切な人が雑に扱われて怪我などしていたら。もちろん、面倒を見てもらっている分際で…とも思うのですが、私も著者のお父さんのように怒鳴ってしまうかもしれません…。

 

■「まともな感覚を持っている医者もたくさんいるんでしょうが、そうじゃない人もいました。彼らは人間を人間だなんて思っていませんよ。

患者がどんな想いで、どう死のうと関心がないんだなと感じました。」(P227)

■「いい死に方をするには、きちんとした医療知識を身につけた、いい医師に巡り合うことですね」

「どうやって見分けるんですか?」

「その方法がないから問題なんですよ」(P229)

いい死に方をするにはいい看護師も含め、いい医療従事者に出会うしかないのに、その方法がないとは。。。

医師から見た医療現場の現状についてのリアルというのがまた…。

どうやっていい医療従事者を調べたらいいのでしょう。。。ネットの口コミだって、本当かどうかはわかりませんよね。。。

 

■服を買う時は試着する。美容院に行って髪を切ってもらう時は、相性のいい美容師に任せる。それなのに、人は医師がどんな死生観を持っているかを知らずに、自分の運命を委ねるのだ。(P235)

言い換えると、患者の人生に寄り添い死に方を提供するのではなく、医師自身が正しいと信じる死に方をさせる可能性がある、ということですよね。

 

 

そうは言っても、世の中にはいい医療従事者の方たちもたくさんいると思います。

作中に書かれていた、口が悪く暴力もふるう乱暴な患者さん。彼に声を荒げることもなく親身な対応をする場面には、見えない看護師さんたちに頭が下がる思いでした。

例えば、介護施設での入居者の方への虐待がよくニュースにもなりますが、それ以上にスタッフの方は暴力を受けているはずなんですよね。

病気(認知症など)だから仕方ないとは言え、仕事だから暴力に耐えろというのも違うなと思ってしまいます。

 

 

いい死に方をするには、いい医療従事者に出会うことが大切ですが、良い家族関係を築いておくというのも重要だと感じました。

自分が希望する死に方を汲んでくれる関係なのか。

それとも、見舞いにも来てもらえない関係なのか。

 

とは言え、いくら良い家族関係が築けていても、それだけで円満に行くほど在宅医療は簡単なものではないとも感じました。

 

■在宅で看病している家族だって同じようなものだ。患者の苦しみから目を逸らしたくなる時もある。病気を前にしたら身がすくむし、ちっぽけな自分にはどうしようもない負の感情が湧いてくることもあるのだ。

そして家族はその感情ゆえに苦しむ。本当のところ、それは家族を愛しているか、愛していないか、思いやりがあるか、ないかとは別の問題なのだ。在宅で療養すれば患者が幸せなのかといえば、必ずしもそうとは限らないのではないか。(P18)

 

先日カフェにいたとき、おそらく少し痴呆が出てきている高齢の女性(母親?)と中年の男性(恐らく息子さん)が隣の席に座っていました。

息子さんは結構強い口調で

「迷惑なんだよ!!」

「面倒なことしないでくれる!!!面倒なことするなら置いていくよ」

「あなたのために○○してあげてるんだよ?自分でできますか?できませんよね?」

「ほんっと手間ばっかりかけさせて(ため息)」

息子さんが悪いとかそういうことではないんですが、ちょうどこの本を読んでいるところだったので色々と考えてしまいました。

 

自分だったらどうだろう。親だからこそきつい口調になってしまうのもわかる。

けれど、実の親に対して「迷惑」「置いていく」と言ってしまうくらいの精神状態なら、プロに任せたい気もする。

ただ、任せるにしてもお金がかかるし、任せることが親にとっていいことなのかもわからない。

いつも穏やかに接してあげられたら一番ですが、こちらも感情を持った人間なのでストレスも溜まります。

家族だからこその感情も湧いてきてしまいます。

 

 

 

生きているということは、必ず死ぬということですが、日常で死について考えることはあまりありません。

病気や怪我をしたとき、身近な人がなくなった時などに初めて考えるのではないでしょうか?

 

■彼に言われて、改めてこの世界を眺めてみれば、平日の人気のない海に突然魔法がかかり、美しい贈り物であるように思える。

同じ日は二度と繰り返されない。だからこそ、将来を思い煩うことなく、今日を生きよ。

昔から、何度も繰り返されるメッセージを、いつだって私たちは三歩歩けば忘れてしまう。(P97)

■そのコミュニティーの中で、生老病死は、何ひとつ、カモフラージュされていなかった。

大きなトカゲやヘビのいる森の中で、病も死も自然のサイクルとして置かれ、風雨にも、人の目にもさらされている。(P215)

 

どんなに「大切な毎日を、無駄にせず生きよう」と思っても、思い続け実践し続けることがなかなかできません。

 

生きていれば必ず死ぬこと。

いつ死ぬかは人それぞれで誰にもわからないこと。

明日も生きているという保証はどこにもないこと。

 

これらは当たり前のことなのに忘れがちです。

それは、今の世の中では「死なない(生きている)」ということが当たり前になりつつあるからなのかな、と思いました。

作中にもありましたが、病には「負けてはいけない」という風潮や、平均寿命まで当たり前に生きられるだろうという謎の安心感などによって、死というものが当たり前のものから、「逃げたいもの」「できるだけ先延ばしにするもの」になってしまっているのかなと。

 

私も学生の頃までは身近に死を感じることはありませんでした。小学生のころ同級生の母親が亡くなりお葬式に行ったときにも、実感が沸きませんでした。

いままで当たり前にいた人が、いなくなる。それがどんなことか、想像がつきませんでした。

 

私が初めて「死」を身近に感じたのは、祖父が亡くなった時です。ずっと癌で闘病していて、もう長くはないとわかっていたはずなのに、それでもまさか祖父が亡くなるなんて…という気持ちでした。

そのときから、あぁ、人は死ぬんだなということが当たり前に思えるようになりました。

 

私のように、祖父母が亡くなる経験などをすれば死を身近に感じられるかもしれませんが、生まれた時にすでに鬼籍に入っている場合は初めて死を身近に感じるのはご両親が亡くなった時かもしれません。

それまでは、死というのはニュースなどのテレビ番組で耳にするもの、新聞やネットで目に入るもの、という認識なのかもしれません。

 

 

 

もし自分自身が、エンド・オブ・ライフの状態になったら、どう思うでしょうか。

 

■かわいそうとか、大変だとか言う言葉で片付けてほしくない。そこには長さでは測れない、生命の質というものがあるはずなんです。 (P95)

 

■それは残された時間じゃないんですよ。それは、もともとの僕らの持ち時間なんです(中略)それは、長くも、短くもない。定められたその人の寿命なんです。僕らには、延ばすことも、短くすることもできないんですよ。(P96)

 

■母が病気になって以来、私は病気を「くじ引き」のようなものだと捉えるようになった。

母が病気になった理由は?ただの偶然だ。意味などない。

それになんとか意味をつけようとするのが人間だ。私たちライターはしばしば偶然に意味をつけることに加担している。

人間は意味のない不運に耐えられないのだ。(P105)

 

■病を得ると、人はその困難に何かしらの意味を求めてしまう。自分の痛みの意味、苦しみの意味。

人は意味のないことに耐えることができない。

だからこそ、自分の生き方を見直してみたくなる。なぜ病になってしまったのだろうか。今までの生き方が間違っていたからではないか。

本当にこの生き方でよかったのか。自分には別の道があったのではないか。

そして、心も身体もすべて委ねる大いなる存在が欲しくなり、それにすがりたくなる。(P180)

 

「残された時間ではなく、もともとの持ち時間」

「病気になったのはくじ引きのようなもの。」これらの表現が私にはしっくりきました。

 

平均寿命と比べてしまうから、長い短いと感じてしまう。

そうではなく、人それぞれ持ち時間が違っただけのこと。それも含めて、「くじ引き」のようなものだと思いました。

それでも、自分や大切な人が病になってしまったときには、意味を求めてしまうんだろうな…。

いくら今の状態で「意味なんてない、持ち時間が違ったんだよ」と冷静に書いていても、実際エンド・オブ・ライフに差し掛かったらどう思うかなんて、そのときにならないと誰もわかりません。

 

仕方ない、と受け入れつつも、できるだけ命を長く持たせようとあれこれ画策するでしょうか?

 

■助かるための選択肢は増えたが、それゆえに、選択をすることが過酷さを増している。私たちはあきらめが悪くなっている。どこまで西洋医学にすがったらいいのか、私たち人間にはわからない。昔なら神や天命に委ねた領域だ。(P205)

昔の人からしたら、今の平均寿命は驚きでしょうね。

調べましたが、1950年時点の平均寿命は男性が58歳、女性が61歳。

2019年時点では男性が81歳、女性が87歳。

医療の進歩などにより、約70年で寿命が20歳以上伸びたわけです。

昔は疫病が流行っても治すすべもなく、祈祷などにすがるしかなかった。それが今では昔は治せなかった病も治せるようになってきた。

 

けれど、選択肢が増えたことで新たな悩みも増えたと思います。命をあきらめたくない。

選択ができてしまうと、選ばなかった選択肢のほうが正しかったのではないかと後悔する可能性があります。

この選択をしてしまったから…あの選択をしていれば…

それならいっそ、選択肢自体ない方が精神的には楽なのではないかとも感じてしまいます。

 

まあ、そうは言っても平均寿命が延びたことで大切な人たちと過ごせる時間も増えたということなので、恩恵もたくさんあるんですけどね。

治せなかった病が治せる方法が見つかったりして、苦痛を減らす手段も増えましたしね…。

 

 

 

人それぞれ生き方が違うように、死に方も違います。

病気になっても、残り時間の中でやり残したことができるというのは、まだ良いことなのもしれません。

急な事故などで、死について考えることもなく亡くなってしまうこともあるかもしれません。

自分がどんな死に方をするかなんて、誰にもわかりませんショボーン


 

以下、作品中の文章と感想を書いていきます。

 

■がんは原発がどこかによって生存率が変わって来る。

すい臓原発のがんであるなら、その生存率はほかのがんと比べても低い。

肺のがんがすい臓から転移しているものであれば、森山のがんは、この時点ですでにステージⅣ。こうなると手術も放射線治療も功を奏さない。

ステージⅣの5年相対生存率は、全国がんセンター協議会加盟施設の生存率協同調査(2008-2010年症例)によると、1.5パーセントだった。 (P10)

原発(=最初に癌ができた場所)がどこかによって生存率が変わることはあまり知りませんでした。

そもそも「5年相対生存率」がよくわからなかったのですが

 

診断された人のうち5年後に生存している人の割合が、日本人全体*で5年後に生存している人の割合に比べてどのくらい低いかで表します。(参照元 )

 

調べたら、すい臓、胆のう、肝臓あたりは5年相対生存率が低かったです。

なぜすい臓癌の5年相対生存率が低いのかと言うことを調べてみると、初期に自覚症状が現れることがほとんどなく、異変に気づいた頃には

進行してしまっているからだそうです。

発見と診断が難しい癌のため、森山さんのケースのように、もう治療ができない、と言うことが多いそうですぐすん

 

 

 

■いかんせんノンフィクションを書いてきた人間だ。思考が現実的すぎて、大いなるものに身を委ねることができない。「悟り」も「気づき」も一向に訪れる気配はなかった。年齢も重ねているし、今更、何かを全面的に信じるという態度を取ることができない。特に宗教的な啓示を受けることもなく、結局「俗世」へと戻ってきてしまった。(P50)

現実を追う仕事を今までしてた人が、急に目には見えない「大いなるもの」を全面的に信じることはできませんよね。

 

 

■がんなどの病気は、進行するにつれて、痛みや嘔気、息苦しさ、倦怠感などつらい症状が増えてくる。しかし蓮池によると、その症状を緩和する薬の種類・用量は、個人により大きく異なるのだという。(P68)

私が普段飲む痛み止めは、1回○錠と容量が決められたものですが、癌などになってくると人それぞれ痛みの度合いも違うため種類も容量も変えるとは知りませんでした。

しかも、それもお医者さんのセンス(と言っていいのか?)や技術によると言うのだから、良いお医者さんに出会えるかどうかが患者さんにとっていかに大切かということがよくわかります。。。

 

 

 

最後に、いいなあと思った一文を。

■私たちは暫くここに滞在し、バカンスが終わると過ぎ去っていく旅行者のようなものだ。多少の早い遅いはあっても、いずれ行く場所はみな同じだ。百年後ここにいる人は誰もいない。(P236)

こう考えると、死も案外怖くないなと思います。むしろ、この世が旅行先で、あの世のほうがホームの可能性だってある。

 

 

この本を読んで、元気なうちから自分の人生のしまい方についてきちんと計画を立てておこうと思いましたセキセイインコ青

遺しておきたい言葉など、きちんと記しておこうとも思いました鉛筆

クラウドなどに写真などもたくさん保存しているので、アクセス方法や処理についてなども記しておかないといけませんね…。

 

あのときこうしておけばよかった、と後悔しないように、また、遺された人たちのためにも、今のうちからできる準備はしておこうと思いましたゆめみる宝石