ブログをずっと書かずにいて、申し訳ありません。
毎日相変わらずの暑さでしたが、体調を悪くしたとかではなく、単に書く気になれずにいました。
もっとはっきり言えば、大島奈保美という人物について、何一つ考えたく無いし、何か文章を書く気が起こらなかったのです。
言い訳です、すみません。
それならそれで「しばらくブログを休みます」と、ここにハッキリ書けばいいのに、簡単な事なのに、したくありませんでした。
私の怠慢のせいで、「ブログをやめた」と某所で誤解させてしまったので、今更ですが「そうでは無い」と分かっていただくべく、今こうして書いています。
本当に、心配をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした。
いただいたコメントには、これから返信させていただきますので、もう少し時間をいただければ幸いです。
(先に返信すべきですが、ご迷惑にならないように、明日の日中までにはさせていただく予定です)
ずっとブログを放置していて、いきなり「アニメ」の話で恐縮ですが、皆さんは「アニメ」の登場人物の言った事で、忘れられないもの、「名言だな」と思うもの、何かございますか?
私は「犬夜叉」の楓婆ちゃんの言葉が、ずっと気になっていました。
(声優の京田尚子さんが好きなので、余計にそうなのかも知れません)
ストーリーには触れませんが、楓婆ちゃん、主人公の犬夜叉に、こう言っています。(大体の内容です)
お前は、墓という物をどう考える
墓とは、単に遺体や遺骨を納めるだけの場所ではない
本当に墓を必要とするのは、残された者たちの心なのだ
(中略)
しかし人とは、か弱き者
困難や不安なる心に、たやすく押しつぶされる
面影を慕いたいのだ
その心の拠り所だったのだ、あの墓は
これだけでは、見ていない人は「何のこっちゃ?」
ですよね…😓
楓婆ちゃんは「巫女さん」です。
すみません、このまま進めます。
「犬夜叉」の放送当時、私は父母の住む実家から、クルマで2時間程の場所で、親子三人で暮らしており、お墓とは、「お盆に帰省して参る場所」でした。
父と母が鬼籍に入って、何年も経って初めて「墓とは何ぞや?」と、ポンコツの頭で少しだけ考えるようになったのです。
(勿論、京田さんの声で脳内に再生されました😁)
それまで、お墓とは「亡くなった人の為の場所」と思っていたのが、父母という大切な存在(の肉体)がこの世から消えてしまった事で、私にとっての「心の拠り所」になっていったのだと思います。
すぐにでは無く、時間をかけて、「そうだ、もういないんだ…、」と、実家に帰る度に、遺影を見る度に、月命日・祥月命日の度に、少しずつ受け入れられるようになっていったかと…。
ちなみに、父は西城秀樹さんと同じ日付けで、母は私の〇十回目の誕生日の朝に他界しています。
二歳年上の姉は「郷ひろみさん」のファン、私は西城秀樹さんのファンだったので、「馬鹿な娘が命日を忘れないようにしてくれたんだね」と、冗談を言えるようになったのは、亡くなって十年以上経ってからの話です。
母が亡くなってからは、自分の「誕生日」というよりは、当たり前ですが「母の命日」なので、「誕生日」をあまり意識しないようになりました。
毎年一つずつ年齢を重ねて来たのが、母の他界により「誕生日」が来ないような感覚になった事を、そう悪くないかな?と思えるようになったのは、本当につい最近の話です。
一緒に住んでいたのに死に目に会えなかった事を、姉は酷く悔やんでいて、二人で母の話をすると、まだ涙を止める事が出来ずにいます。
昨日、好き嫌い.comでは、ある方の「お別れ会」の話題が出ていました。
短くまとめると、康徳氏がその方の「お別れ会」に行くつもりでいたら、奈保美氏が酷い頭痛を起こし、病院に付き添った結果時間に遅れ、結局「欠席」した、という話で…。
確かに、身体の弱い「奥様」を心配される気持ちは分かります。
「欠席」する事になったのも、仕方無いと言えば仕方無いんですが…。
康徳氏に遅刻してでもいいから、行って欲しかったしもし私が同じ立場なら、診察が全て終わるまで付いていてもらう事はしません。
「葬儀」では無くて「お別れ会」だとしても、行きたい気持ちがある間柄であったのなら、行かせてあげるべきでした。
ブログで「合掌」では無く、きちんと出席して、最後のお別れをして欲しかったと思います。
大島康徳氏の死後、「お別れ会」の話が誰からも出ないばかりか、家族だけの「年忌法要」も食事だけで、ご住職に来ていただいた様子はありません。
これは「年忌法要」では無く「偲ぶ会」と呼ばなければなりませんね?
康徳氏の「遺骨」は、愛犬「祭」の遺骨と一緒に自宅に置かれている、間違いありませんか?
(ここを読んでいるはずなので質問してみました)
亡くなって三年ですが、私は「すぐにも納骨すべき」と言いたい訳ではありません。
奈保美氏は、二年前に「ファン」からの質問で、納骨時期について「他者からの意見で無く、自分の心に従う」と答えています。
「だって…ここに居てくれて この手で抱きしめられるのですから… 居て欲しいのです、まだ、ここに。」
記者の方の書き方かも知れませんが、この方に「ファン」がいらしたのですね?
ちっとも存じ上げませんでした。
二年経って、気持ちに「変化」はありましたか?
まだ「抱きしめていたい」のでしょうか?
大島康徳氏は、アナタの夫であると共に、名球会入りを果たしたプロ野球選手で、監督もなさった方…。
「大島家」としてのやり方に、口を挟むつもりは毛頭ございませんが、野球選手としての康徳氏に沢山の「ファン」の方がいた事、闘病を応援していた方も多かった事は、ご存知のはずです。
康徳氏も、「お別れ」と「お礼」を言いたかった、とは思われませんか?
野球関係者の中にも、全て終えてからの「訃報」に、驚いた方が沢山いらした事と思います。
何の連絡ももらえず、見送る事が出来なかった方達の気持ちを、少しでも考えた事がありますか?
もしかしたら、康徳氏の故郷・「大分県中津市」から駆け付けたかった方もいらっしゃるかも知れません。
大島奈保美氏、
もしこれを読んだのなら、今からでも「お別れ会」を考えてはいただけないでしょうか?
生前の康徳氏と交流があった全ての方に、きちんとお別れをする機会を設けて欲しいのです。
どうしても難しいのであれば、せめて「紙製の仮祭壇」では無く、康徳氏に相応しい物を用意して、付けっぱなしの、恐らく「埃だらけ」であろう遺影のリボンを外してあげて下さい。
口で「パパ、パパ…」と言うだけで、なにか「供養」になるのでしょうか?
自分が喉が乾いたのなら、故人にも「飲み物」を用意してお供えする、そういうことが「当たり前」だと思っていました。
たとえ自分が乾いていなくても、朝、炊きたてのご飯やきれいな水、お茶やコーヒー、季節の果物などをお供えする事は、皆さんしていらっしゃいますが、起きる事は出来ませんか?
東京のお盆は「7月」だそうですが、お時間があるのでしたら、このお盆期間中に「ちらし寿司」を手作りして、供えて差し上げたらいかがでしょう?
康徳氏、喜ばれると思います。
「康徳氏」、「奈保美氏」という書き方は、どうしても「さん」付けに違和感があっての事で、特に意味はありません。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
楽しい内容を書いている訳では無いので、無理にお読みにならないで下さい。