1964年 東京オリンピック エンブレムとポスター | "デザインってなに?"的ノート

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デザイン的な思考やものの見方、デザインそのもののことなどを話題にします。

 

以下の記事は2023年1月に書いたものです。

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2020年東京オリンピック(開催は2021年)が終了して1年半が過ぎました。

その2020年東京五輪のデザインではなく、今回は1964年東京オリンピックのデザインについて題材として取り上げたいと思います。というのは、この時から日本のグラフィックデザインが飛躍を遂げることになり、言わば、1964年東京五輪のグラフィックデザインは、デザインの原点として語り継がれるべきものだと思うからです。

 

1964年東京オリンピックの優れたグラフィックデザインというのは、誰もが目にしたことのある有名なエンブレム(ロゴ)とポスターのことです。

 

これらのデザインを中心となって手掛けたデザイナーは亀倉雄策(かめくら ゆうさく)でした。

 

亀倉雄策について

 

亀倉雄策は1915(大正4)年4月に新潟県で生まれています。15歳頃に、小津安二郎監督の映画『お嬢さん』(193012月公開)を観に行って、モダンなデザインで描かれたその映画のポスターに興味を持ち、図案を制作する仕事に就こうと決めたようです。

 

戦時中は対外プロパガンダのためのグラフ誌『NIPPON』の編集・制作を手がけていたようです。その時、1936(昭和11)年6月に発行された『NIPPON』の表紙を発見し、そのイメージを強く記憶することになります、アスリートらしき大きな外国人女性の横顔が金色に描かれたイラストの下に、スタートダッシュする短距離選手の写真が小さく配置されている構図でした。モデルは暁の超特急と呼ばれた吉岡隆徳という選手で、背景は朱色のグラデーションになっていました。この記憶は後に、1964年東京オリンピックの第2号ポスターを制作するときに生かせされることになります。

 

1946(昭和21)年、プロパガンダ誌を制作していた亀倉はGHQから尋問を受け、公職追放となりました。その後、1951(昭和26)年に約50人のデザイナー仲間とともに日本宣伝美術会(日宣美)という職能団体を立ち上げています。さらに、1959(昭和34)年12月、亀倉が中心となって広告制作会社の「日本デザインセンター」が設立されました。亀倉は専務取締役に就くことになります。トヨタ自動車、アサヒビール、旭化成、東芝をはじめとする大手企業8社が出資したようです。1964年東京オリンピックのシンボル・マークのコンペ参加の声がかかったのは、そのわずか数カ月後のことだったようです。

 

■1964年東京オリンピック・エンブレムについて

 

(エンブレム)

 

1960(昭和35)年6月、1964年東京オリンピックのエンブレムが発表されたとき、人々は強いインパクトを受けたようです。実際、このエンブレムに関して、とてもシンプルで、これ以上日本らしさと日本を力強く印象付けるものはないでしょう!

 

オリンピックのデザイン懇談会では、シンボル・マーク(エンブレム)の「指名コンペ」を行うことが決まっていました。「指名コンペ」にしたのは、広く国民に募集し選考する時間がなかったからだとそうです。指命されたデザイナーは亀倉を含めて6人。1人ずつデザインを提案していく方式が取られましたが、亀倉が赤い丸と金の五輪マークと文字で構成した例のデザインを見せると。審査委員みんなの表情が変わり、メンバーの1人が「決まったな」と言って、反対意見はなく亀倉案が満場一致で決まったようです。

 

このエンブレムは、伝説のグラフィックデザイナーであるミルトン・グレイザーが、1924年のパリの夏季大会から2022年の北京の冬季大会までの歴代のオリンピックロゴを100点満点で評価した時、ダントツで評価が高かったもので、92点を獲得して1位になっています。

 

このエンブレムの意図はどのようなものでしょうか?日本の国旗というのは、縦・横の比率は2:3とし、日の丸の直径は縦幅の5分の3、日の丸の位置は旗の中心となるので、日の丸の上5分の1と下5分の1が余白となります。エンブレムの日の丸はその構図を大きく崩したもので、日の丸だけを大胆に大きく目立たせています。しかも五輪を金色にして、日の丸と五輪の間はほんの僅かの隙間になっていて、まるで日の丸が五輪の上に鎮座している、もしくは、五輪が雲で、その雲から日の丸が出ているといった印象を持ちます。金色の五輪の下にヘルヴェチカのボールドで、これまた金色の「TOKYO 1964」という文字が刻まれています。おそらく、日の丸が国旗のような構図で描かれていたり、日の丸と五輪の間に相応の余白があったりすると、かなり違った印象になっていたでしょう。また、五輪も、お決まりの5色で塗られていたら大分安っぽい印象になったのではないでしょうか?

 

グレイザーは、このロゴのシンプルさを「適切に仕上げられていてまったく混乱がない。すべての要素が調和している」と評価しています。

亀倉は、このエンブレムについて、次のような感想を語っています。

 

「単純でしかも直接的に日本を感じさせ、オリンピックを感じさせる、むずかしいテーマであったが、あんまりひねったり、考えすぎたりしないよう気をつけて作ったのがこのシンボルです。日本の清潔な、しかも明快さと、オリンピックのスポーティな動感とを表してみたかったのです。その点、できたものはサッパリしていて、簡素といっていいほどの単純さです。」

 

■1964年東京オリンピック・公式ポスター(第1号ポスターと第2号ポスター)について

 

(第1号ポスター)

 

(第2号ポスター画像)

 

オリンピック公式ポスターの制作も亀倉雄策が担当しました。オリンピックの公式ポスターの第1号は、亀倉がデザインした「シンボル・マーク(エンブレム)」そのものでした。赤い大きな日の丸に、金色の五輪と「TOKYO1964」の文字を組み合わせたデザインは、あっという間に国民に浸透していきました。印刷枚数は10万枚。すでに40年以上経っているにもかかわらず、全く古さを感じさせず、シンプルで斬新かつ静粛なデザインとして後世に残る傑作となりました。

 

次に第2号ポスターの制作依頼が亀倉に来ました。亀倉は悩んだようです。理由は1号を超えるデザインを期待されたからでした。まずは過去のオリンピックのポスターをすべて集め、分析を始めています。そこで分かったことは、過去のポスターはほとんどが開催地のアピールや古代オリンピックのイメージを描いたイラストで構成されていて、スポーツそのものをダイナミックに表現したものはなかったということでした。そこから亀倉は「次は写真だ」と決めました。

 

様々なスポーツのシーンを思い浮かべて検討していた時、亀倉は『NIPPON7号の表紙に描かれた陸上短距離のスタートダッシュのデザインを思い出しました。

 

「あれはすばらしいデザインだった。あれを超えるものを作ろう」

 

こうして、第1号ポスターに匹敵する傑作となる第2号ポスターの制作がスタートします。亀倉は陸上ポスター制作に際して、「ライトパブリシティ」というプロダクションからディレクター、写真家を抜擢しました。このプロダクションは彼自身が所属する「日本デザインセンター」のライバル会社でしたが、亀倉はクリエイティブの力を持つ人間を使いたくてたまりませんでした。そこで、日本デザインセンターを退職し、ポスターの制作に賭けたのです。亀倉雄策は、そこまで制作に打ち込むの情熱を持っていました。

 

写真家の早崎治と村越襄がスタートダッシュの写真を撮影した場所は、神宮外苑の旧国立競技場でした。撮影の日時は1962年の331日。亀倉が出した指示は、「スタートダッシュの瞬間を望遠レンズを使って撮れ!観客席を写すことはない!」でした。彼らは望遠レンズで夜間撮影をしたようですが、当時はまだストロボが少なかったので、ずいぶんと苦労したようでした。

 

早崎はライトパブリシティのアシスタントカメラマン3名を連れて行き、夕暮れから夜まで、6人の陸上競技選手に30回以上もスタートダッシュを繰り返させました。メインカメラマンの早崎の他にサブのカメラマンを3名たて、全員が同時にシャッターを切りました。

 

写真の背景を漆黒にするため、照明を消した夜の国立競技場を使用したので、ストロボの光量を大きくしなくてはいけません。20台ものストロボを設置して、同時に発光させるため何度もテストを行いました。当時の大判カメラは現在のような高速連写ができませんでした。1回のスタートダッシュに1回のシャッターを切ることになります。日本の陸上競技選手3人と立川基地のアメリカ軍人3人、合計6人のモデルには30回以上もスタートダッシュをやってもらいました。季節は3月ですので、深夜におよんだ撮影にモデルは寒さに震えていたと言います。

 

苦労してどうにか撮影を終了することができたのですが、翌日、現像所から返って来た現像フィルムを見た早崎と村越の2人は落胆しました。

 

「これじゃダメだ。再撮するしかないな」と2人が思ったのは、「スタートの瞬間そのもの」の写真を探していたからでした。そのようなシーンは見当たりませんでした。 夕方になって、亀倉がやって来て、そこらにあった写真をさっと見て、「これだ!」と言って、1枚だけの写真をピンと横にはねました。

 

それは小さな写真でしたが、すばらしくいい瞬間が映っていました。亀倉は数多くのフィルムのなかから、スタートの瞬間ではなく、スタートした直後のカットを選んだのでした。亀倉はスタートそのものよりも、走り出した時の写真の方が力感が伝わってくると思い、それを選んだようです。亀倉が1964年東京オリンピックのグラフィックデザインに求めたものは、「スポーツが持つエネルギーをいかに伝えるか」ということだったと言えるでしょう。

 

ライトパブリシティに所属していて、後に同社の社長そなる細谷という人物は、写真が選ばれるまでの経緯を克明に観察していました。細谷は第2号のポスターについて、次のように述べています。

 

「あの時の東京オリンピックが成功したのはあの第2号ポスターがあったからですよ。亀倉先生は同じ二人と水泳、聖火ランナーを撮った第3号、第4号のポスターも作りました。でも、悪いけれど比べものになりません。あの陸上のスタートダッシュの緊張感に勝てるようなポスターはあれから後も1枚もありません。奇跡のポスターなんです」

 

1号ポスターを超えるような迫力のあるものをつくるために、亀倉は、「迫力を出すために粒子の荒れを計算に入れてつくった」そうです。このグラビア多色刷りB全版のポスターというのは日本初のものでした。

 

このダイナミックなスタートダッシュの2号ポスターは、オリンピック史上初の"写真を使用した公式ポスター"になりました。過去に例のないことでしたし、ポスター自体のインパクトが素晴らしかったので、当時のデザイン界に衝撃が走りました。

 

おそらくポスターを見た人々は、それまでぼんやりと抱いていたオリンピックのイメージを、現実的で迫力のあるスポーツの一大イベントなのだという実感に変えることができたのではないでしょうか。亀倉のデザインにはそうさせるための力があったと言えます。

 

1号ポスターは19612月に作られ、枚数は10万枚でした。第2号ポスターが発表されたのは、1962525日で9万枚印刷されました。亀倉はその勢いで3号、4号ポスターも制作しました。第3号ポスターは、1963422日に発表され、7万枚作成。第4号ポスターは、1964410日に発表されて、5万枚作成されました。公式ポスターを1年ごとに発表して一度にすべてを見せなかったのは、国民のオリンピックへの関心を徐々にかきたてようという亀倉の提案だったようです。

 

オリンピックで複数の公式ポスターが制作されたのはこの大会が初めてのようです。写真の使用と複数のデザインという2つの史上初が行われたことになります。これ以降、オリンピック公式ポスターではその2つが実施されるようになります。

 

■1964年東京オリンピック・公式ポスター(第3号ポスターと第4号ポスター)について

 

(第3号ポスター画像)

 

(第4号ポスター画像)

 

 

3号ポスターは、第2号ポスターと同じ制作スタッフで、撮影は改修前の東京体育館屋内プールで行われました。モデルはアメリカのウィリアム・ヨージック選手(第16回メルボルンオリンピックのバタフライ金メダリスト)や、古川勝選手(第16回メルボルンオリンピックの男子200m平泳ぎ金メダリスト)などがいろいろ試されたようです。その結果、早稲田大学の岩本光司選手に決定されました。

 

当時、亀倉は「1号を真ん中にして、2号を左に、そして3号を右にして並べると最も効果的である」と話していたようです。

 

4号ポスターは、亀倉と早崎によって作成され、これまでのポスターの躍動感と異なり、夕暮れの静かな、そして自然な趣を醸し出しています。モデルの聖火ランナーは、亀倉から「最もスポーツマン的均整のとれた体格の持ち主」と折り紙をつけられた順天堂大学陸上競技部の田中良明選手(走幅跳)で、夕暮れを背景に寒風の311日、荒川土手で10本のトーチを燃やし、50本近いフィルムを使って撮影されたようです。

 

亀倉は「聖火リレーという宗教的行事の厳粛な感じを出すのに苦労した。私としては会心の作だと思う」と語っていたようです。

 

■1964年東京オリンピックのグラフィックデザインから得る教訓

 

現代日本を代表するデザイナーの佐藤可士和は、「シンプルは嘘をつかない」と明言しています。亀倉雄策が制作した1964年東京オリンピックのエンブレムは、まさにそれを体現している作品だと言えるでしょう。日の丸の白い余白を惜しげもなく省略して紅の日だけを大きく見せる、その紅の日と五輪を接近させ、五輪のカラーを排して金色にする、ポスター全体を白と紅と金色だけの配色にするといったデザインは、シンプルさを極めて日本らしさとオリンピックのインパクトを見事に表現していると言えます。

 

2号ポスターが持つ魅力は、何と言っても、スポーツの持つ躍動感と国際色豊かな選手の多様性を写真で体現して見せることで、「オリンピックは何だか凄いスポーツイベントのようだ」と国民に知らしめたことでしょう。あの短距離走のスタート直後の写真は、構図もすごくいいですね。演出であのような構図をつくることはなかなか無理だと思います。何度も撮り直すことで得られた奇蹟の構図だったのでしょう。

 

エンブレム(第1号ポスター)や第2号ポスターを見ると、「敗戦間もない弱小国日本で行われるオリンピックを、どう押し出せばインパクトあるものにできるか」に、いかに亀倉雄策が情熱を掲げていたかかが伺えます。これは、亀倉雄策のデザイン制作秘話によって裏打ちされています。この時は、企業の談合ひしめく2020年東京オリンピックの商業主義とは違って、数人のクリエイターが日本を輝かせるという情熱を持って取り組んだ成果が実を結んだのです。

 

1964年東京オリンピックのグラフィックデザインは、「優れたデザインというのは、一貫したコンセプトと、磨かれたシンプルさと、絶え間ない情熱によってつくられるものだ」ということを教えてくれているように思われます。