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ところでこの今週行われた写真のパーティで、どう見ても小、中学校時代の同級生だと思われる人物を発見した。もし、そうだとすると15歳の時以来だから、うん十年ぶりの再会となる。とにかく、名前が浮かぶのだ。しかし、確かめようもない。私は勇気を出して、失礼ですが、○○さん?相手はびっくりした様子で、あ、そうですが・・・と答えてくれた。やっぱりそうだ。僕だよ、XXだよ!もちろん、思い出してくれた。なんと「天才のXX君やん!」って過分の表現をしてくれた!(すみません、厚かましいとは思いましたが、本当にそう言われたので・・・。多分、相撲の天才!を言いたかったのかもしれません。) 私の家に遊びに来てくれたことも懐かしそうに思い出してくれた。
いやぁ、ほんまに凄い偶然だ。それにしてもそろそろ認知症が始まって来ているのではないかと思うような年齢に差し掛かってきたが、小学校や中学校の時の記憶はしっかり脳に焼き付いているものなんだな。 名刺交換すると、彼は、大阪では誰もが知っているレストランの重役さん。私と仕事の関係もできそうなので、今度、あらためて会うことになった。
運命とはやっぱり自分で切り開いていくものなんだな。勇気をださなければもう二度と会うことのない同級生だったかもしれない。
今日のリョウくんは、エイリアン河童に大変身!!
とってもキュートに決めてくれました☆
そんな筈ないですよね(笑)
あ、そんなことより、半沢直樹、集中してみなくちゃ!
保育園から、「リョウ君から母の日のプレゼント」ですって戴きました。
でも、リョウは大阪で私と男同士の生活でお母さんはいません。私が母親代わりのようなことをしていることには間違いがありませんが。
リョウの本当のおかあさんは、奈良のブリーダーさんのおうちでまだ健在だと思います。思えば、生後三カ月でお母さんから私がリョウを奪って来たのでした。その日からリョウは私を頼りに生きています。
一度リョウの本当のおかあさんに会わせてあげたい気がします。リョウのおかあさんに私からもリョウを産んでくれてありがとうってお礼を言いたい気持ちで一杯です。
私を産んでくれた母は・・・、いま東京で頑張って生きてくれています。今週末は大阪で仕事があるので東京に見舞いに帰れません。大阪から元気になってくれることをただ祈るばかりです。感謝の気持ちが届きますように・・・。
きょとんとしたリョウの顔。
実は、なにも知らないリョウです。
今日のこの写真のテーマは「別離」です。
私はまた出張で島根県に来ています。
それでリョウは保育園にお泊り。
彼女が今朝リョウを迎えに来てくれました。
実は、このリョウの大好きなお姉さんとの別れが近づいています。
4年以上もお世話になったリョウの一番大好きな、
誰よりも大好きなおねえさんです。
私は今朝彼女に最後のお別れの言葉を述べ、
お祝いの品を受け取ってもらいました。
彼女は和歌山県の方に嫁いでまいります。
心からおめでとうと申し上げました。
しかし、なにも知らないリョウは
明日が彼女に遊んでもらえる最後の日だということを知らない・・・
この記念撮影の意味も。
物はそれぞれ固有の色をもっており、いかに光が満ち溢れていても、物自体に色が存在しなければ色として認識することは出来ないが、私は、また、元の色は同じでも当たる光によって色の感じ方は変わるのではないかとも思う。気持ちの問題かも知れないが、夜明けの朝の光を受けた物体には希望が満ち溢れているように思う。この写真の手すりにさえ躍動を感じるのは私の誤解だろうか。
黄昏の風景に沈む物の色には人生の晩年のような哀愁が満ちており、それはそれで美しく物悲しくもあり、私は嫌いではないが。 ダイヤモンドは輝くから魅力があるのではなくて、光を集めるから美しいのだとある人が言った。
そのような人になりたいものだ。
皇后美智子様が、まだ皇太子妃だった頃、
その1883年レバノン生まれの詩人でもあり画家、
「あなたを救う唯一の道は、他者を救うことだ。」と。
私は、流行に遅れることなくミュージカル映画「レ・ミゼラブル」
ビクトル・ユーゴーがこの大長編小説で書きたかったことは、「
許すということは、どんな人をも差別なく愛し救うことでもある。
私はキリスト教信者ではない。
しかし、
それにしても、歌の効果は大きい。歌舞伎などの長唄や、 語り物である浄瑠璃囃子と同じ効果だろうか。ジャン・バルジャンが、コゼットたちに見守られて天に召される場面。物語の主人公の死を迎える劇的な瞬間、その彼の一生の色々な回顧の場面が、なんか歌のチカラで強引に輻輳されて、泣かせます。嗚咽している人もいた。いや、私もそんな風だった。芸の力を知る。感情を昇華させ耳や目を通じて脳に本来のもの以上に感動という刺激を与えるものが芸術なのか。文学や音楽などの芸術というのは本当に素晴らしいものだと思う。
結局、
人の苦難の一生を3時間に縮めることは脚本上あるいは演出上色々
たまには涙によって心を浄化することもいいことだと思う。
人を許すためにも。そして、自分を許してもらうためにも。
ところで、そのハリール・ジブラーンの詩に、
死について (神谷美恵子 訳)
今度は死について伺いたい、とアルミトラが言った。
彼は言った。
死の秘密を知りたいのですか。
しかし、生の只中にこれを求めないで
どうやって見つかるでしょうか。
闇に慣れた梟は盲(め)しいていて
光の神秘を明らかにすることができない。
もしほんとうに死の心を見たいと思うなら
生命そのものに向かって広く心を開きなさい。
なぜなら川と海とが一つのものであるように
生と死は一つのものなのだから。
あなたの希望と願望の深みに
彼岸についての沈黙の知識がある。
雪の下で夢みる種のように
あなたの心は春を夢みている。
夢を信じなさい、
なぜなら夢の中にこそ
永遠への門が隠れているのだから。
死ぬとは風の中に裸で立ち
陽の中に溶けることではないか。
呼吸をとめるとは絶え間ない潮の動きからこれを放ち、
何のさまたげもなく昇らせ、ひろがらせ、
神を求めるようにさせることではないか。
沈黙の川から飲むとき
そのとき初めてあなたは真に歌うだろう。
山の頂きに辿りついたとき
そのときこそあなたは昇り始めるだろう。
からだが土の中に横たわるとき
そのときこそあなたは真に踊るだろう。
難しいことだけど、