明治4年7月初旬、政府内で廃藩論が公然と提起された。提起したのは長州藩の鳥尾小弥太と野村靖。鳥尾氏は戊辰戦争時、奇兵隊の一員として参加し、明治3年に兵部省の官員になっている。野村氏は松下村塾出身の尊王攘夷運動に参加し、兵制改革を指導している。両名が兵部省の山形有朋を訪ね、酒を酌み交わしながら廃藩論をぶつけた。山県は即座に同意し、先ずは木戸孝允に廃藩論をもちかけ、次いで西郷に話すと言う手順を決めた。参議である両氏の同意が不可欠だからだ。また木戸氏には直接話すのではなく、井上馨から話して貰う事にした。

 

翌日鳥尾、野村両名が井上を訪ね、彼らの真意が「廃藩立県」だと即座に見破ったと言う。大蔵省の井上は財政確立の為にも廃藩は望むとこなので、躊躇することなく同意した。

 

山県・井上が賛成した処で、井上が木戸にその旨を伝えた。これにより長州藩で廃藩断行がまとまった。兵制の統一を考える兵部省の山県、財政の統一を求める大蔵省の井上が目指す中央集権でもある。

 

長州藩内の合意がなったとしても薩摩藩の同意が必要。山県が西郷隆盛を訪ねたのが7月6日。驚くべきはその西郷も即座に同意した事だ。西郷も中央集権化には賛成であり、諸藩からの廃藩の動きもあり、山県の申し出に賛意を示した訳だ。これにより木戸、西郷の同意を得た。残るは大久保利通である。

 

その日の内に西郷は大久保を訪ね、廃藩論を伝える。これまでの3藩提携論、府藩県3次体制の徹底化に限度を感じていた大久保は、中央集権化を計るには、強権的な廃藩断行しかないと決断する。こうして3氏の合意により薩長両藩による廃藩断行が急速に進んだのである。