明治4年7月14日、皇居の大広間に正装した在京中の知藩事56人が急遽呼び出された。彼等は何が始まるのか一切知らされてはいなかった。その彼らの前に明治天皇が進み出ると、右大臣三条実美がその詔を述べた。それには「億兆を保安し、万国と対峙」「藩を廃し県を為す」と言う言葉が書かれていた。当然の様にその場に居た潘知事らはわが耳を疑った。まるで予期しない事だったからだ。その瞬間、彼等は一斉に藩知事を罷免されたのだから。

 

実はこのセレモリーの前、数名の藩知事にはこの事が知らされていた。御前10時に長州藩知事・毛利元徳、薩摩藩知事・島津忠義、肥前藩知事・鍋島直大、土佐藩知事・山内豊範代理の大参事・板垣退助の4人が小御所に呼び出され、この勅語を与えている。この4藩は率先して版籍奉還を建議した藩。その後、名古屋藩知事・徳川慶勝、熊本藩知事・細川護久、鳥取藩知事・蜂須賀茂あきが呼び出された。彼らは廃藩や知藩事辞職を建議していた人達だ。彼等にも勅語が与えられたのである。

 

この後前述した様に在京藩知事に対し、「廃藩置県」の宣言が行われた訳だ。         私たちが知る「廃藩置県」は、この様な一種騙し討ちのような形で行われたもの。では何故これに対し反乱が起きなかったのか、また「廃藩置県」策が急遽行われる様になったのか、この辺りについてもう少し詳しくお話して行きましょう。