この様な諸藩からの廃藩建白が相次ぐ中、薩長両藩の中で政府強化策が進む。  その中で薩摩の西郷隆盛が親兵(政府直轄軍)制度を提案する。政府強化策の一環だ。西郷・木戸らは土佐の板垣退助との間で3藩提携を結び薩摩・長州、土佐藩から親兵が集められた。その数約8000、歩兵、砲兵、騎兵からなる直轄軍の誕生である。軍事強化策はこれだけではない。東西の要地に鎮台を設け、直轄軍の一部を派遣し、西海道鎮台には、熊本・肥前・豊津各藩に出兵令を申し渡す。

 

これはこの時期各地で発生した「尊王攘夷派」による反政府運動に対し大いに効果を発揮した。またこの様な軍事強化策とは別に、岩倉具視による政府強化策も進む。 それは3藩以外の有力藩を中央政府に取り込む策だ。薩長土以外に名古屋・福井・肥前を加えた6藩体制を提起している。

 

さてこれからはいよいよ廃藩置県について話を進める事になるが、この事が如何に驚くべき出来事であったか、先ずはそれについて触れてみよう。

 

廃藩置県が行われたのは明治4年7月14日、この廃藩の合意が維新政府内で成立したのは断行の5日前の7月9日の事、しかも薩長両藩の僅かな人数で行われた。 薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通・西郷従道・大山巌、そして長州藩の木戸孝允・山形有朋・井上薫だ。土佐藩を始めとした諸藩にはまったく知らせていない。最高首脳の三条実美・岩倉具視に伝えたのは2日前の12日だ。天皇による一方的な形での通告で、有無も言わせぬものだった。これにより全国261の藩が廃され、知藩事は罷免され、旧藩地を離れ、東京常駐を命じられた。これは明治国家誕生の瞬間でもあった。