ここからはその版籍奉還論について見てみよう。土地と人民を天皇に返上すると言うのが版籍奉還である。この考え方は慶応3年11月2日、薩摩藩士・寺島宗則が藩主島津忠義に対し提出した意見書が最初だ。薩摩藩が率先して版籍を奉還すべきだと。翌慶應4年4月11日・島津忠義が朝廷に提出した「願書」にその事が書かれてある。だがこの時の版籍奉還論は完全なものでは無く、一部返還と言うものだった。

 

一方長州藩では木戸孝允がその中心にいた。慶応4年1月、長州藩が長州征伐で占領していた豊前・岩見の2国を朝廷に返上を申し出ている。藩主・毛利敬親の同意を得て、2月には三条実美、岩倉具視に版籍奉還を申し出ている。その後薩摩藩と長州藩は内密にこの問題について話し合っている。  

        

明治2年1月14日、京都の料亭で薩摩・長州・土佐藩のメンバーが集まった。薩摩からは大久保利通、長州からは広沢真臣、土佐からは板垣退助だ。この場で「土地人民返上」が話し合われた。即ち版籍奉還だ。この会合で3者の意見は合意している。その際、武備の充実が必要と言う認識もあったと言う。

 

1月20日、長州藩士・毛利敬親、薩摩藩主・島津忠義、土佐藩主・山内豊範、肥前藩主・鍋島直大が連署して版籍奉還を建白した。但しこの中でうたわれているのは、天皇により土地を再交付すると言うものだ。これからも判る通り藩主側にとって版籍奉還はある種魅力あるものだった。

 

この4藩に続き雪崩を打ったように版籍奉還が相次いだ。24日の鳥取藩、27日には佐土原藩、28日に福井藩・熊本藩・大垣藩、30日には松江藩が。その後2月に78藩が、3月に47藩、4月に101藩、5月17藩、6月4藩と続く。しかしこれは藩主側の版籍奉還の解釈に一種思い込みが強く、維新政権は必ずしもそうは考えていなかった。

 

こうして版籍奉還は行われ、府藩県三次体制が確立された。藩主は知藩事となり、領地は「管轄地」と呼ばれ、天皇の土地を管轄する役目の地方長官となった。