ここで少々視点を変えてみたい。明治政府は戊辰戦争に関与した、いわゆる「朝敵」と言われた人々の処分に関するものだ。大きく3つに分かれる。

 

① 鳥羽伏見の戦い ②関東の争乱 ③東北戦争です。①は会津、桑名、備中松山、伊予松山、姫路、高松、大多喜各藩です。会津、桑名、備中松山はその後の争乱にも関与しており処分は③以降となっています。鳥羽伏見だけの藩は軍資金の献納のみとなっています。また②に関しては請西、関宿、結城、小田原各藩で小田原藩のみが6月に処分されたが、それ以外はやはり③以降となります。

 

明治元年12月7日 皇居大広間に対象となる藩主、重臣が呼び出されえた。しかし処分内容は寛大でした。死罪になった藩主は誰一人いない。没収された石高は25藩で103万石、会津藩と請西藩の2藩だけが全領地没収となった。会津は23万石、請西藩は1万石で、廃藩となったのはこの2藩だけで、その他は石高の削減です。

 

削減率トップは長岡藩、7万4千石から2万4千石に減らされた。廃藩に追い込まれた会津藩は、翌年下北半島に3万石が与えられ斗南藩として復活するが、その実態は悲惨なものだったと伝えられている。没収された領地(支配地)の管理は諸藩に命じる。

 

では新政府に貢献した人々にはどの様なご褒美が与えられたのでしょう。対象になった人々は皇族・公家・藩主・藩士等400名余りです。最高額の10万石は薩摩藩主父子と長州藩父子に与えられました。土佐藩主父子には4万石、鳥取・大垣・佐土原・松代藩主に3万石、次いで肥前藩の2万石と続きます。3000石までの上位は全て藩主で、藩士での最高額は薩摩藩士・西郷隆盛の2000石、そして長州藩士・大村益次郎の1500石となります。これからも判る様に薩摩・長州の両藩、そして土佐藩に対する厚遇は、彼ら無くして維新政権が成り立たなかった証だとも言えよう。

 

永く続いた戦乱により藩財政は悪化し、藩主及び藩重臣の権威は地に落ちた。藩主の中で戦いに参陣した人は、新政府側にも朝敵側にもほとんどいないのである。

 

財政面にしても大きく負担が圧し掛かった。年貢などでは到底賄えず、大商人や豪農商からの借金、藩札の発行などで賄っている。この様な中で各藩主達が従来の地位を確保する為にはどうしたら良いか・・・、そんな考えが次第に広がって行く。それが有名な版籍奉還論に繋がって行くのです。