新政府は三職七科制を敷き、徴士・貢士の制度化が行われます。徴士は諸藩から新政府に抜擢した、いわゆる官僚の原点となったものです。また貢士とは、石高に応じ諸藩から選出した、「輿論会議」のメンバー(議員)となる人達です。 

 

彼等は議政官と呼ばれ、上下の2局からなります。上局には議定・参与が、下局にはこの貢士が当たります。 上局のメンバーをご紹介します。

議定は三条・岩倉等公家から6名が、藩主からは松平慶永(越前藩主)、蜂須賀茂あき(徳島藩主)、亀井これみ(津和野藩主)、鍋島直正(肥前藩主)、毛利元徳(長州藩主)の5名、参与は全て藩士で、薩摩から小松清廉、大久保利通、長州から広沢真臣、木戸孝允、土佐からは後藤象二郎、福岡孝弟、肥前からは副島種臣、福井から由利公正、熊本からは横井小楠の9名です。これからも判る通り、当初は諸藩に依存する傾向がありましたが、この頃から薩摩・長州・土佐・肥前藩中心に移行している様に思えます。

 

幕藩体制から天皇を頂点とした中央集権体制に移行する為、藩を3区分化し、地方行政区画として藩を利用します。政府の直轄地を府・県とし、その他の大名領は藩と言う名で区分けし、これを府藩県三治体制と呼んでいます。 また府・藩・県の政令には「誓文」の趣意から、独自に爵位、貨幣鋳造、外国人登用、他藩及び外国との盟約等を禁じています。

 

明治元年から順次府や県が置かれて行きますが、関東地方は戦乱が続いていた関係で遅れ、5月12日に江戸府、6月17日に神奈川府が置かれますが、その他はかなり遅れています。また知県事のみが6月以降に置かれ、最初の知県事は真岡知県事です。後に明治政府を担う事になる薩摩藩士・松方正義は日田県知事、長州藩士・伊藤博文は兵庫県知事に就任している。知県事と県知事は同じもので、明治2年に改称されたものです。   

 

維新政府では藩に依存せざるを得ません。中央集権と言っても、実態は藩を存続したままです。このままでは幕藩政治と少しも変わりません。武力により諸藩を押さえただけなのですから。その違いが「五か条の御誓文」であり、「王政復古」なのです。日本は天皇を中心とした一つの国であると言う概念を広く知らしめないとならない。幕藩体制時は藩と言う小さな国が、銘々好き勝手に運営していた。先ずはそれを変えなくてはならない。

 

府藩県三治体制に移る前、府県設置段階から、先ずはそれぞれに異なる藩の職制を統一させた。執政・参政・公儀人とし、任命権は藩主に認めるが門閥にかかわらず人材を登用すること、また藩主の藩政と家政とを区分する事、議事の制度をつくる等が出された。「公論」を重視する公儀人の設置や議事制度の整備は特筆すべきだろう。