「王政復古の大号令」が発せらると共に、慶喜の政権返上と将軍職の辞退が許可されます。また摂政・関白及び幕府も廃絶され、武家政治と摂関政治が否定されたのです。

 

また当面、新政権の機構として総裁・議定・参与の3職が設けられ、総裁には有栖川宮熾仁親王が、議定は公家の中山忠能・三条實愛・中御門経之、藩からは名古屋藩主 徳川慶勝・福井藩主 松平慶永・広島藩主 浅野茂勲・土佐藩主 山内豊信・薩摩藩主 島津忠義が就く。参与には岩倉具視と5藩から各3名が任命され、いわゆる雄藩連合政権が誕生しました。

 

更に朝廷が裁決する際、「天下の公儀」を採用したいと言う想いから、諸藩連合政権と言う形に成りつつありました。だがこれは、討幕派には好ましからざるものです。

そんな中、西郷隆盛等による江戸での挑発行為に乗せられた徳川側が、薩摩藩邸焼き討ちと言う暴挙にでたのです。これが切っ掛けとなり、鳥羽伏見の戦いに、そして戊辰戦争へと繋がって行くのです。

 

薩摩・長州・土佐を中心とした新政府軍は「官軍」と呼ばれ、ついに「東征」が開始されます。鳥羽伏見での幕府軍の敗退は西日本諸藩の新政府支持につながり、旧幕府領や「朝敵」と呼ばれた諸藩の領地は全て新政府に没収されます。

 

没収地=直轄地には次々と鎮台・裁判所が設置されます。ここで言う裁判所は今と違い、行政府も兼ねていました。4月11日に江戸城が新政府側に引き渡されますが、これ以降戊辰戦争が本格化して行く事になります。戊辰戦争の終結は、明治2年5月18日の箱館降伏です。

 

戊辰戦争の終結により、全ての藩が新政府に恭順した事になります。そこで新政府は藩を、大藩・中藩・小藩の3区分化します。大藩は40万石以上、中藩は10万石以上、小藩は1万石以上です。更に諸藩に対し一律の指令を出しました。朝廷・諸藩の一体化をめざし、門閥制度を打破し、賢才を登用すべきであると。

 

明治維新の根底に流れるもの、それは「五か条の御誓文」第一条にあるもの。

「広く会議を起こし、万機公論に決すべし」、これまでの専制政治から、何事も話し合いにより決めると言うものです。新政府はこの誓文の精神を全ての藩に命じたのです。

 

                                以下次回