明治維新を語る上で欠かせないのが、徳川幕府=徳川慶喜が何故政権を手放す気になったか・・だろう。

 

「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)、たった4杯で夜も眠られず」

こんな狂歌がこの時代読まれた。上喜撰とはこの当時飲まれていたお茶だが、それと黒船をひっかけたものだ。アメリカのペリーに開国を迫られた徳川幕府、我が国を取り巻く諸外国の状況を知るにつけ、もはや徳川政権だけでは如何ともしがたく感じたのであろう。

 

この国には天皇が存在し、将軍は国家元首ではない。今で言うなら総理大臣みたいなもので、挙国一致とは呼び難い。また国家と言う概念とは少々異なる。そこで土佐藩の公儀政体論に基づき、幕府は大政奉還を受け入れたのである。政権を朝廷に返上し、改めて幕府の専制を否定した諸藩連合政権を立ち上げる考えであった。そして諸藩の代表(藩主)が集まって様々な事柄を決める、そのまとめ役として徳川慶喜が付くと言う考えだった。命令権者は勿論天皇だ。

 

しかし討幕派と呼ばれる薩摩藩・そして長州藩はあくまでも武力により幕府を倒し、徳川家を抹殺する事であった。

 

当初は幕府側が有利に展開する。慶應3年10月14日が大政奉還の日。その前日の13日に薩摩藩に、翌14日に長州藩対し「討幕の密勅」が与えられていたが、21日に薩長両藩に対し「密勅の中止」を指示した。24日に慶喜は将軍職を返上するのだが、朝廷は「諸大名の会議」で決めることにし保留扱いとした。この時点では慶喜はまだ将軍であった。

 

そこで薩長両藩はクーデターを企てる。薩摩・長州・土佐・広島・福井、名古屋各藩に出兵を促し、軍事力を結集させ、御所を封鎖したのである。そして天皇は「王政復古の大号令」を発したのです。

                           以下次回