国鉄内では高卒として通用したが、退職した時点で小生の最終学歴は中卒となる。

これでは再就職が儘ならないのは明白だ。それは仲間の誰もが思っていた。

その為自宅通勤が可能となった時点で、多くの仲間は定時制高校へ通う道を求めた。社会で通じる高卒の資格を獲る為だった。そして4年と言う歳月をなんとか乗り切り、無事高卒の資格を取得出来た。

 

そして再就職した先が、「近畿日本ツーリスト」と言う旅行会社。旅行が好きだったこともあったが、今思うと、旅行はあくまでも楽しむものであり、職業としてはあまりお勧めは出来ない。当時は「大阪万博」等の好景気が続いた頃で、小生の様な中途採用も積極的に行われていた。ここで2度目の入所式を迎えた。集合先は箱根にある研修施設。合格者はここで導入教育が施され、合宿終了時点で配属先が伝えられる。研修では社歴、時刻表の引き方、ABC(国際線時刻表)の見方等々を学ぶ。そして「東京テレフォンセンター」と言う部署に配属されたのだ。「**営業所」とばかり思っていただけに正直戸惑った。何をするところなのかサッパリ判らない。誰もかれもが営業所の窓口で働けると思ったら大間違い。中には総務課に配属された女性もいた。彼女は一度も配属先に出向かず辞めた。聞いた話では秘書に決まっていたらしい。

 

この当時の旅行会社は今とはかなり違う。今や旅行会社は斜陽産業とも言えるが、この当時は右肩上がりの絶好調企業だった。国鉄指定券の発売が民間会社として初めて認可された。その予約を行うのが「東京テレフォンセンター」業務のひとつだった。それとは別に航空券の座席予約も行っていた。後に「東京指定券センター」として組織分割される。だがその後各営業所に「国鉄」のマルス端末が設置される様になり、この職場は消えていく。その後新宿営業所をはじめ様々な部署に移動した。「つくば万博実施本部」で働いていた頃が一番の思い出かな。最後の勤務先は「新宿新都庁支店」だった。出来たばかりの新都庁内の支店だ。小生の勤めていた頃が旅行会社の最盛期だった様に思う。やがてインターネットの普及と共に、「他人の褌で相撲をとる会社」は需要度が薄くなって行く。全てネットで出来る様になった。そして駅前から、「銀行窓口」と「旅行窓口」が消えて行った。

 

そして将来の不安を覚えた小生、20年間務めたこの会社を辞める決心をする。40才に手が届く年齢だった。今思えばかなりの決断だったかな?