【自分の頭で思考しない地方、危うし】

僕らの学びは、
教科書ごときに閉じているはずもなく、
日常生活のあらゆる場面、あらゆる瞬間に、ふんだんに散りばめられている。

教科書だけでは、本当の学びなどとても追うことはできない。

少なくとも、身体性を伴った経験による知は、教科書の文字だけの情報では、永遠に手に入れることなどできない。

裏を返せば、経験や体験による知が少なすぎて、教科書からの学びすら手に入れることができないとも言えるのだ。


至極当たり前に、
経験則などからでも、日常生活などからでも、
必然理解されていた上記のようなことは今、誰かに意図して教わらないと知ることができない事態を迎えている。



では、本題に入ろう。


そんな中、今、首都圏の中学受験が、過剰になりすぎてまともに人が育っていない問題が取り立たされている。

知識人や有識者ほど、ここに危機感がある。

教育が受験勉強に偏りすぎて、人が育っていないのだ。


ところがどうであろう。
 
あろうことか、その問題視・疑問視されている今の受験勉強の形やスタイルを、
うちのような地方のまちは、追随しようとしているのである。


情報を見ていないのか、思考する力がないのか、学校や教育に閉じた世界観ゆえか、首都圏のマネに走っているのだ。

そもそも、同じ形で戦うことが難しいのが今の大都市と地方だ。

住むところで年収が決まる、なんてデータも出て久しいが、地方に住む以上、同じ戦い方をしては部が悪い。

同じ戦いを挑むなら、引っ越すのが打つべき手で、そうでないなら、戦い方そのものを変えなければならない。

ただでさえそうであるのに、
追うべきではないかも知れないやり方を真似してしまっている。



自分の頭で思考しない地方のまちは、ただただ滅びるのみである。

滅びの道を望まないなら、自分たちの頭を使い、自分たちの環境でこその戦略を立てる必要がある。


この時代に、偏差値と学校名のための受験勉強を、暗記やパターン学習の手法で押し進めることが、本当に目指すべき道なのか。


自分たちのまちの教育のあり方を、
自分たちの頭を使って考えたい。


(おわり)