その1
情報(バーチャルだとかオンラインだとかの)空間が、過剰に膨張した今。
テクノロジーの進化は、より人の生活を便利にしつつありますね。
ところが、そうなってきて、見えてくるのは、自分の身体の領域で物事を習得するというアナログな行為が、伸びにくくなることでしょう。
いくら周囲がデジタルに溢れても、
自分が何かトレーニングをして知識や技術を習得するという行為そのものは、自分の身体性にかかる領域ですし、それは非常にアナログの動作ですよね。
今のところ。
すでにこれが、もうとっても苦手な世代に移りつつある。
それがネイティブでスマホ、タブレットやSNSに触れてきた世代の大変なところでしょう。
何せ、学校での学習とそこかかる試験に関しては、従来と大差はないわけですから、これまでの子たちと同じ力をある程度要求されることになります。
ところがここに必要な力が際立って伸びにくい。
そりゃあ学力は下がるよね、と目に見える形でそれがはっきりとわかる。
それも、想像、想定を遥かに超えていて、7−8年前から下げ止まらない。
年々、なんですよ。
これは子どもたちの現場にいると顕著です。
(一斉授業で黙って聞いておけ、トップダウンスタイルの人は気づかないっぽいです)
ところが、何かを習得する、いわゆる学びなんですけれども、それはやはりこれからも、最低限、必要でしょう。
ここでの習得とは、
理解や読解だけでなく、しっかり修練、トレーニングをして身につける、かつ、一定量の事柄を暗記する、というところを含みます。
身体性も伴ったアナログでの習得、修練。
何かを会得する。
これらの行為は、いわゆる学びですし、この学びを通じて、成長がある。
ここの力が急速に低下してしまったことで、課題はとても大きなもの、より乗り越えるのに困難なものになろうとしています。
この症状は、すでに、社会に出始めている若い世代の方々のところで顕在化しています。
仕事をされている上の世代の方は明確に感じられているはずです。
(学べない若者たち、成長しない若者たち、ですね。これについてはここでは長くなるので割愛)
物事を習得するというアナログな行為の危機。
できることは、小中といった義務教育課程で、導く側が強く意識して、力を養っていくことであると言えるでしょう。
なんとか僕は僕のところでやれることを、日々、精一杯取り組んでいるわけですけれども、
実際のところ多くの教育現場で、取り組めているかは甚だ疑問です。
課題は山積みなのです。
はい。
その2
先の記事に、大事な補足を加えておきます。
目に見える次元での学力低下。
それは子どもたちの物事の習得に関わる力の話になるわけですけれども、この力の低下で大事なポイントは、
それが「質的な変化」であるということです。
ところが、多く現場で行われているのは「量的な変化」への対応策が多いのです。
だから、まあ、正直、効果はほとんどないですし、
もし、それで例えばテストの点数が見かけ上アップしても、問題の解決には繋がることはないでしょう。
問題なのは、今子どもたちに起こっていることは「質的な変化」だということです。
一斉授業と一方通行のコミュニケーションを主とする今の教育現場では、
この点を分析できている人がほとんどいない。
だから、ここにある子どもたちの変化を「量的な変化」として捉え、手を打ってしまうわけです。
もしこれが、学習が足りない、学びが少ないという、量的な要因ゆえの、学力低下だと捉えるなら、
打つ手は簡単で、「もっと大量にやらせる」ということになる。
で、実際に、現場はそうなってしまっているわけです。
その成果は言わずもがな。すでに社会人前後の若者の姿がそれを表してしまっています。
学べない世代、成長できない世代。
それをこの量的な対応が産み出してしまっている。
すでに誤った結果が出てしまっている以上、方針そのものを見直す必要があることがわかるでしょう。
重要なことは、「質」が変わってしまっていることなのです。
これは、現代の子どもたちの特性が変わってきていることと同義とも言えます。
子どもたちの育ち方が違うと言えばいいでしょうか。社会環境やテクノロジーの変化によって、身につきやすい力や身につきにくい力が、従来とは異なるのです。それが質的な変化の意味するところです。
だから、これまでと同じことをこれまでと同じように「強めて」も意味がないわけです。
問題を量的なものと捉えている間は、進展がないでしょう。
質が違うのだから、導く側も、取り組み方や必要なスキルが異なるのですね。
そのことを理解する必要があるのです。
(で、各種発信をしているので、Youtube動画やnote記事をご参照ください)
教育現場はかつてないほどの混乱期にあります。
これについては、Twitterなどの匿名SNSが果たした役割も大きいかもしれません。一般の方々にも、現場が抱える問題が見えやすくなった。
実際、文科省も「#教師のバトン」を活用して、twitterで(当初の狙いとは異なったでしょうが)情報収集しているところまで来ていますからね。
働き方改革(特給法と働かせ放題の問題)や部活(地域民間への移行)問題、授業や生徒指導の問題、いじめ、不登校の問題など、
これほどまでに多種多様な問題を抱えた組織が世の中に存在するのか?というほどの、混迷です。
この問いのいずれにも、子どもたちの特性の変化、特にここでは質的な変化を理解することが肝心です。
それが欠けているから、進めようがないとも言えますが。
輪をかけて、実は、学べないのは先生の方であった、という見方すら今は囁かれてしまっているわけで、
変われないおとな、学べない大人の問題も大きいことも付け加えておきましょう。
話を戻しますが、
この学力低下は、子どもたちの質的な変化に端を発します。
まずはそれを見定めること。その上で、必要だと思える力の向上に取り組むことが大事になってきます。
量的な変化、それは過去の延長上にある、というような見方です。
一方、質的な変化は、延長上にない、進化のようなジャンプを指します。
まずはその見立てが必要です。
それを補足しておきます。
その3。
続き。
先の記事で、
自分自身による物事の習得、熟達に焦点をあてました。
その続きです。
物事の習得が苦手な世代(苦手というよりも感覚が薄い、または持っていない、に近い)。
ここで、気をつけなければならないことがあります。
物事の習得には「時間が必要である」ということです。
なんとも当たり前な話なのですが、当たり前と思えるのはあなたが子どもたちとは別の世代だからに過ぎません。
自身の身体性を伴った習熟の感覚が薄くなった今の子たちは、
そこに「一定の時間が必要である」ということを意識に上げるような導きが必要なのです。
もちろん、そんなこと言われなくとも(自分で)理解しろ、なんて前時代的な物言いは禁物です。
これは「時間への許容」に関する言及です。
私たちは消費社会を生きています。
近代以降、戦後、いえ、もっと近いところで、バブル期を経た後、
経済こそが私たちの社会、共同体、家庭を覆い尽くしてしまっていることに気づきます。
西洋の合理主義的なビジネス観も合いまって、経済とそこにある商取引と消費が、私たちの価値観の軸となるに至りました。
簡単に言えば、経済原理に基づき、要不要、意味無意味を決定するような感覚を持って生きているわけです。
いい意味でも悪い意味でも経済が私たちの物差しになってしまった。なり過ぎてしまった。
経済の物差しのもとでは、時間は大きなコストです。
できるだけ私たちは、「時間をかけないこと」を優先するようにどんどんなってきた。
時間への許容は失われてきているのです。
翻って。
学びと成長は、時間を必要とするものです。
効果効率だけを追えるようなものですらありません。
無駄に思えることが実は後々、つまり時間が経ってから意味のあるものであった、ということだってある。
単に、習熟に時間がかかるということもそうですし、時間が経たないと、今やっていることが無駄かどうかすらわからない、なんてこともある。
予測が効きにくい有時間行動こそが、学びであり、成長なのですね。
つまり、学び(ここでは物事の習熟)は、「時間への許容」なしには成立し得ないものなのです。
一方、現代では、時間への許容がどんどん失われてきてしまいました。
今の子どもたち世代は尚更です。
情報空間が膨張し、目まぐるしい速度で多くの情報が流れては消えていく現代。
スマホやタブレット、それらを活用したSNSはその象徴とも言えるでしょう。
Youtubeをみたことがない子、なんて、今や皆無ですし、Lineを知らない子なんて一人もいやしないのです。
彼ら彼女らは、この膨らんだ情報空間のネイティブ世代です。
時間への許容は、ほとんど持てない世界を生きている。
業界にいる方はご存知の通りですが、
ドラマのカット割りなども、同じカットをずっとみていられない消費者に向けて、非常に早いカットわりで製作されるようになりました。
音楽もそう。イントロは極力短く、いきなりサビから始まる。間奏もできるだけ省く、そんな具合です。
Youtubeを見る際には、どんどんスキップして、動画から動画へとびうつりながら閲覧していくのが、当たり前でしょう。
時間への許容は限りなく持たなくても良い、持つ必要のないものへと変わってきたのです。
しかし、学びやそこにある修練やトレーニングには時間が必要となります。
他の多くの場面では、ショートカットがきくのに、なぜか、そうじゃない世界がある。
それもかなり限定的に、です。
子どもたちにとっては、何故か違う振る舞いを要求されるのは学校くらい、というのが標準でしょう。
(突っ込んで言及すると、消費者としての行動、そして学び手としての行動、これら2つの違いです)
子どもたちがこの状況になかなか対応するのが難しいというのは、ごく自然なことであるとも言えます。
それでもなお、
未来の社会においても、自身の学びと成長が必要だと考えるとき、
これは避けては通れない問題となります。
もちろん、道は大きく2つに分化すると想定できます。
1つは、学びや成長はないのだけれども、消費をエンジョイすることで人生を楽しむ道。
もう一つは、自らの学びや成長をしつつ、消費だけでなく物事をクリエイトする側にまわる道。
これを格差の問題に結びつけるか否かは置いておいくとして、
今の子どもたち世代は、かなり決定的とも言えるこれら2つの道のどちらかを選択することになるはずです。
「時間への許容」は、それを決定づける一つの要因となるはずです。
くれぐれも、
何も伸びないのに、時間だけがかかるなぞるだけ宿題は、推奨しませんよ。
思考を要しない作業では、学びを得ることができませんから。
(そもそも、管理統制、強制、指示命令による単純作業は、自分自身に時間への許容を意識させるものにはなり得ません)
さて、あなたはどちらに進みたいと考えますか。
あなたのお子さんは?
地域のこどもたちは?
それが、ここでの問いです。
(おわり)
本田に直接習える場所
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