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日本史を中心に歴史をテーマにしたYoutube動画を制作・運営しております。

最近読んだ本で中公新書から出ている『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』(元木泰雄 著)というのがあって、なかなか面白くて、いま保元の乱あたりまで読んでいる今日この頃です。
それで今後は河内源氏をテーマにいくつかYoutube動画を作ろうと思っていて、その内容をブログというかたちでまとめようと思っていますが、今回はその初めの回ということになります。
他にも同時並行的に「応仁の乱」をテーマにすすめているので、記事は前後するかも知れません。

その河内源氏。ずっと血筋を遡っていくと第56代の清和天皇(せいわてんのう)(在位:天安2年(858年)~貞観18年(876年))にいきつくのですが、その第六皇子である貞純親王の子の経基王(つねもとおう)の時代に臣籍降下して「源」姓を名乗るようになり、この源経基から源満仲がうまれ、満仲の三男として河内源氏の祖となる源頼信が生まれるという形になります。

ちなみにいうと、天皇家から臣籍降下(つまり皇族ではなく臣下に降ること)して「源朝臣」(みなもとのあそん)を姓として賜った氏族は清和源氏を含めて二十一の流派があって、これを「源氏二十一流」というのですが、清和源氏の中でもさらに枝分かれがあって、河内源氏以外にも、摂津源氏やら大和源氏やらというのもあったりします。このあたりは複雑ですよね。

ところで、最初に登場する「経基王」ですが、あの平将門の乱に関係して登場します。

 

 

経基王、臣籍降下してのちに「源経基」と呼ばれることになるこの人物は、承平8年(938年)に武蔵介として武蔵権守の興世王と共に武蔵国に赴任するのですが、ここで足立郡司の武芝と検注(いわゆる土地調査ですね)の実施をめぐって対立してしまいます。
それで、武芝の態度に腹をたてた経基は、なんと武芝のいる群の政庁を襲撃して略奪を行うという暴挙にでるのですが、この争いを仲裁すべく登場したのが平将門。
これに対して経基と興世王は妻子をつれて比企郡にある山に立て籠もって抵抗します。
やがて、興世王は仲裁に応じて山を下りるのですが、経基はなおも山を下りず、そうこうしているうちに、武芝の兵が経基のいる山を取り囲み始め、殺されることを恐れた経基は京へ逃げ帰ってしまいます。

逃げ帰った経基は「将門謀叛」を朝廷に訴えて、逆に誣告の罪により左衛門府に拘禁されるという、惨めな結末に至ります。
世人からは「介経基、未だ兵の道に練れず」と嘲笑されるのですが、その後なんと、誣告とされた内容が本当になってしまい、経基はかえって勇気をもって事実を伝えたものと評されて従五位下に昇進することになります。

もっとも平将門が謀叛を起こしたのは、常陸国府を襲撃したからであり、経基がかかわった武蔵国の出来事とは無関係なのですが、将門の一連の行動が謀叛に関係すると思われたからなのかも知れませんね。ともあれ、経基は運の良い男だったのだろうと思います。

ここで登場する平将門ですが、彼もまたその祖を辿れば第50代桓武天皇とつながていて、高望王の時代に「平」の姓を下され、その一族は関東に根を張ります。この一派が西国へ拠点を築き、やがて伊勢平氏となって、河内源氏のライバルとなる平清盛を生むのですが、それは後のお話。

ところでこの平将門。謀叛を起こしたそもそもの切っ掛けは、常陸国の国司と地元の豪族である藤原玄明(ふじわらのはるあき)が租税の徴収を巡って対立し、玄明が将門の庇護を頼ったことにありました。ここで、藤原玄明の引き渡しを求める国府の軍勢三〇〇〇と将門の軍勢一〇〇〇とが軍事衝突することとなり、戦上手な将門が数にまさる国府軍を打ち破り、こともあろうに国司から印綬を奪うという暴挙に出てしまいます。
それ以前にも身内での揉め事などで合戦を繰り返してきた将門でしたが、今回ばかりは許されるわけもなく、朝廷への反逆者として討伐されることとなります。

さて、ここで源経基。彼は将門が謀叛を起こした事で運よく左衛門府より釈放され、さらに従五位下に昇進するという幸運に恵まれることとなったのですが、さらに、将門討伐軍の大将(征東大将軍)となった藤原忠文の副将として乱の平定へと向かうこととなります。本人はさぞ気負い立ったことでしょう。
しかしこともあろうに、平将門は追討軍の到着を待たずして、平貞盛や藤原秀郷らに討ち取られてしまい、せっかくの見せ場もなくなってしまいます。多少残党狩りで活躍はできたものの、さして手柄もなく帰京しての、天慶3年(940年)8月、今度は平将門の乱とほぼ時を同じくして起きた藤原純友の乱を鎮圧するため、追捕使次官として純友の乱平定に向かうこととなります。

結局のところ、藤原純友は大宰府合戦により追捕使の小野好古によって討ち取られることになりますが、その後の残党狩りでは、それなりの武勲をたてられたようです。
この功績が影響したかどうか分かりませんが、その後経基は武蔵、信濃、筑前、但馬、伊予などの国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めることになります。

ということで、源経基はそれなりの満足のいく人生を送ったといえるのではないでしょうか。
この源経基の嫡男である源満仲(みなもとのみつなか)の三男として河内源氏の祖となる源頼信(みなもとのよりのぶ)が生まれます。

あ、それとついでながら平将門の乱で登場する藤原忠文ですが、征東大将軍となったのは68歳という、当時としてはかなりの老齢で、しかも朝廷の正規軍であるにもかかわらず、ほとんど活躍できず、戦後処理だけ済ませるとさっさと帰京してしまいます。
その後、藤原純友の乱に対処するため、彼は征西大将軍に衣替えし西国へ下っていくも、ここでも活躍できず、結局恩賞もなかったとか。
この処遇に忠文はかなり憤慨したようで、のちに彼への恩賞に反対した藤原実頼の子女らが次々に亡くなったときには、忠文の怨霊のなせる業であると人々を恐れさせたといいます。それで「悪霊民部卿(あくりょうみんぶきょう)」という異名までつけられたのだとか。

平将門の乱と藤原純友の乱は、相互に申し合わせがあったかどうかは良く分からないものの、ほぼ同時期に起きたことから、承平・天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)などと呼ばれまることになりますが、ともあれ、もはや朝廷の正規軍は用をなさなくなり、源氏や平氏などの在地に根を張った軍事貴族たちが朝廷の軍事を司るようになるという、その切っ掛けとなった出来事ではあったのです。

ということで、次回は源満仲、源頼信などについて書いてみたいと思います。