現在、中公新書から出ている『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』(元木泰雄 著)というのを読んでいるのですが、本の中では『軍事貴族』という用語がよく登場します。源氏や平氏といった武士をあらわすのに使われているのですが、筆者によるとこの方が実体をよりよく反映しているので良いのだそうです。
去年2024年の大河ドラマ『ひかる君へ』は平安時代に活躍した紫式部を主人公にしたドラマで、馬にまたがり弓矢をひく平安貴族の姿が描かれていたりとかなりイメージも実態に近くなった気がするのですが、それ以前のイメージだと平安貴族というのはどこか文弱で、恋愛とか歌とか宴会ばかりの平和ボケした姿で描かれることが多かった気がします。
ひどいのになると裏声でなよなよした話し方で(つまり「おじゃる」言葉というんですかね)、白粉塗ったくった顔で「オホホホ・・」と笑う姿が印象的に描かれていたりしますね。
でもそれは後世に作り出されたイメージであって、実際、彼らは時には馬に乗って弓矢を引き、武士たちを引き連れて戦ったりできる存在でもあったようです。
そもそも貴族というのは位階で五位以上のものを指すのであって、平氏や源氏といった武者であっても五位以上の位階を持つものであればそれは立派な貴族であり、貴族のなかでとりわけ武芸をもって朝廷に仕える家柄のものを軍事貴族という用語で語るわけです。
去年2024年の大河ドラマ『ひかる君へ』の最後のほうで『刀伊の入寇』という事件を扱った箇所があり、ご覧になった方もいるかと思いますが、あれは本当にあった話で、刀伊と呼ばれる海賊が大宰府を襲い、そこに甲冑姿に身をつつんだ藤原隆家が配下の武士たちを率いて現れ、戦う姿が描かれていましたが、隆家は道長の兄の子なので、立派な平安貴族です。
そんなふうに見ていくと、武士と貴族というのはどこか紙一重の存在であり、まったく別の階級なり次元の違う存在ではないということに気づかされます。そんな前提のもとに、この先読んでもらえると理解しやすいのではないかと思うのですが。
ともあれ、前回の続きを書こうと思います。
前回は、源基経の生涯を紹介してみました。
こちらに前回の記事のURLを貼っておきます。ご興味のある方はぜひご覧ください。
さて、今回は源満仲を取り上げてみたいと思います。
源満仲は源基経の嫡男として生まれます。
彼が史料に初めて登場するのは、天徳4年(960年)の頃で、平将門の子が入京したという噂が立ち上った際に、村上天皇から蔵人頭(くろうどのとう)を通して直接動員されています。この時の動員は官職と無関係に行われていて、これ以降、武士はその身分にかかわらず天皇や院によって動員されるようになります。そのような状況から、この当時、満仲は有力な武将のひとりと見なされていたようです。
その満仲を一躍有名にした事件が京の都でおこります。
それが、安和(あんな)二年(969年)におきた「安和の変」です。
この事件は、当時左大臣であった源高明(みなもとのたかあきら)が、謀叛を企てた罪により九州へと流罪となるという事件でしたが、その計画は壮大なもので、村上天皇崩御後に東宮となれなかった為平親王を奉じて東国に遷し参らせ、その地で兵乱を起こし京で帝に擁立するというものでした。(『源平盛衰記』より)真偽のほどは怪しいもので、そもそもは源高明の勢力伸長を恐れた藤原伊尹(これまさ)・兼家(かねいえ)の策謀ではないかといわれています。
まず、事の発端は村上天皇の崩御からはじまります。時に康保4年(967年)5月25日のこと。このとき、東宮つまり皇太子であった憲平親王(のりひらしんのう)が即位し冷泉天皇となります。また、関白太政大臣として藤原実頼が、左大臣に源高明、右大臣に藤原師尹がつくという体制でスタートします。
問題はこの冷泉天皇が病弱であり、かつ皇子がまだいなかったことでした。即位と同時に急遽、東宮が立てられることとなり、ふたりの皇子が候補に昇ります。それが、冷泉天皇の同母弟にあたる為平親王と守平親王でした。為平親王の妃は源高明の娘であったため、もし為平親王がつぎの帝ということになれば、高明は天皇の外祖父として権勢を握ることになりますが、藤原氏としては面白くありません。そこで、伊尹と兼家は守平親王を強く推挙し、守平親王が東宮ということに決まります。一方、源高明の落胆は大きいものがあったでしょう。
そもそも、高明は藤原北家の中心人物である藤原師輔の娘を妻に持ち、かつ師輔の娘の安子は三人の皇子の母でもあったため、やがては天皇の外祖父として、また摂政として権勢を握る師輔を補佐するという立場で、安定的な未来が約束されていたはずでした。ところが、師輔や安子が次々と亡くなるという悲劇に見舞われるようになり、深い信頼をよせる村上天皇まで世をさるに及んで高明は宮中で孤立を深めます。さぞ焦燥も深かったものと思われます。
ところで、この「安和の変」が発覚したのは他でもない、源満仲の密告があったからでした。
そもそも満仲は、その妻が高明の妻とはイトコ同士という関係であり、そうした血縁関係もあって高明に祗候していたようなのですが、途中から高明を裏切り藤原北家の側にたつことを決断したもののようです。このあたりの事情は、かの藤原秀郷の子の藤原千晴が京へのぼり高明と関係を深めていたことと関係するらしく、この千晴と対抗する意味合いから、藤原北家の側にすり寄ったのだろうといわれています。
藤原秀郷は、平将門の乱が起きた当時、討伐に名乗りをあげて活躍した武将のひとりであり、非常に高い名声を勝ち得た人物でしたが、その子である千晴が京に進出し高明と関係を深めているということが、満仲にとっては脅威に感じられたのではないかと思われます。
結局のところ、満仲の密告によって謀叛の計画は露見し、源高明は失脚してしまい、満仲にとってはライバル関係にあった藤原千晴もこの事件に連座して失脚してしまいます。一方、源満仲は藤原北家の深い信頼をえて正五位下に叙され、京における武士の第一人者としての地位を獲得します。河内源氏の飛躍の切っ掛けをつくったともいえるでしょう。
安和の変の翌年、源満仲は摂津国川辺郡多田を開発してここを活動の拠点に定めます。場所は今の兵庫県川西市で、場所的に京に近く、京で有事のあった際にはすぐに駆けつけられるような場所に拠点を構えたといえるでしょう。かくして、満仲はこの地に検非違使なども立ち入れない治外法権となる所領を形成し、武士団を組織して「武門源氏の祖」と仰がれるようになります。
最後に晩年の満仲についていうならば『今昔物語集』には晩年の満仲の様子が描かれていて、それによると、この多田の地で満仲は数多の郎等を養い、ときには彼らに「私刑」をくわえ、狩猟や鷹飼によって多くの殺生を行う罪深い生活を送っていたのですが、ある時、子で延暦寺の僧となっていた源賢に説得されて出家し、生前の罪を悔いながら余生を過ごしたということです。
源満仲の生涯、如何でしたでしょうか?
次は頼光、頼親、頼信など満仲の子らの活躍を取り上げてみたいと思います。

