太平記の世界について「元弘の乱」について調べてみた | 歴探見るラジオ放送局

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こんにちは、最近「新田義貞」の生涯をテーマに動画を制作しています。
この前、新田義貞と足利尊氏が同じ八幡太郎義家の血統を引く源氏の名門である話をしました。
そして、同じ源氏の名門でありながら、鎌倉幕府内において天と地ほどの待遇の差があることにも触れました。
その後、元弘の乱を切っ掛けに建武の新政と、それに続く戦乱でふたりはライバルとして対決していくことになるのですが。

ということで、今日は「元弘の乱」について、そのはじまりの部分を解説する記事を書きました。

元弘の乱というのは、かいつまんでいうと、後醍醐天皇の討幕計画が露見することでおきた幕府方と後醍醐天皇天皇方との間でおきた騒乱と理解して良いかと思います。
この元弘の乱をとおして鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇を中心とする建武の新政がはじまることになります。

後醍醐天皇の討幕計画というのは、まず北野祭の祭日に六波羅探題を襲撃して京都を制圧してから、奈良の衆徒(僧兵)を動員して宇治や瀬田を封鎖し、その後、畿内の武士らに決起を呼びかけて討幕軍を起こすという壮大なものでした。
これだけの壮大な計画を練る後醍醐天皇というのは、それだけで胆力のある稀な存在のような気もしますが、残念ながらこの計画は幕府側に露見してしまいます。
この時、謀議に参加した土岐頼兼と多治見国長らは、捕縛しようと踏み込んできた六波羅探題により討ち取れられ、側近の日野資朝は佐渡へ配流となってしまいますが、後醍醐天皇自身は、必死に弁明により罪を逃れます。

ちなみにこの時、近臣らとの謀議は「無礼講」と呼ばれる宴会の形式がとられたといわれています。
この時の無礼講の様子を「太平記」と呼ばれる古典から引用すると、

その交会遊飲のてい、見聞耳目を驚かせり。
献盃の次第、上下をいはず、男は烏帽子を脱いでもとどりを放ち、法師は衣を着せずして白衣なり。
年十七、八なる女の、みめかたちいつくしく、はだえ殊に清らかなるを二十余人に、すずしのひとえばかりを着せて、酌を取らせたれば、雪のはだ透き通って、太液の芙蓉新たに水を出でたるに異ならず。山海の珍を尽くし、旨酒泉の如くにたたえて、遊び戯れ舞い歌ふ。

 


といったような様子だったとか。
何となく様子が目に浮かぶようですね。

こうして討幕計画は失敗したものの、一度の失敗で懲りる後醍醐天皇ではありませんでした。
自ら密教の秘宝を駆使して幕府調伏の祈祷をおこなったり、護良親王を天台座主につけて寺社勢力を取り組むなど計画をすすめます。ところが、今回も討幕の計画は幕府の知られるところとなり、今度こそはただではすまないと覚悟した後醍醐天皇は、笠置山に籠り討幕の兵をあげます。(元弘の変)
ときに1331年8月のことでした。

 

と、今日はこのくらいにしておきます。(夜も遅いので)

本当は後醍醐天皇の置かれた朝廷での状況といったことも書き加え戦ったのですが、それは今度ということにします。

 

さわりだけ話すと、この当時、朝廷は持明院統と大覚寺統という二つの系統に分かれていて、その二つの系統から交互に天皇を即位させる決まりとなっていました。もちろん、鎌倉幕府のお伺いをたてたうえでです。

後醍醐天皇は大覚寺統の系統に属していたのですが、この「両統迭立」がやがて南北朝時代に北朝の「持明院統」、南朝の「大覚寺統」へと分かれていくのです。

 

なんだか複雑ですね。

でも、この複雑さが鎌倉末期の動乱から南北朝時代にかけての面白さなのかも知れません。

それではまた。