知らなかったときには安くて便利~と思いながらアパホテル使っていましたが、

今は絶対使いません。

まあ使っているときも部屋に置いてある本に違和を感じていましたが、

原因が分かったときはすっきりしました。

 

今回の都知事選でも、なんかちらちら背後に某団体の影響を感じるものがありますが、そんなことを報道したら、なんかあるのでしょうか。

結構、影響を及ぼしていると思うのですが、なんかみんなだんまり。

 

この団体には私も若かりし頃にだまされそうになりましたが、

主張しているところの真逆の左系統が示す史料などを読みあさり、

結局どっちもどっちだ、という結論に至りました。

 

「美しい~」とか「新しい日本の~」とか「皇室の伝統~」とか、

そういう形容が付いているものには眉に唾を付けてから読むのが良いでしょう。

 

そもそも「皇室」と言っている時点で馬脚だと思うのですが、この人たちの発言を注意深く聞いていると、結構そういうところは気を使って話している気がします。

なんで「皇室」であって「皇統」とかではないかと考えると自ずと答えが出てくる気がします。

 

あとこの団体のよく使うキーワードに「英霊」なんかもあったりして、その団体の草創期に三島事件があって、なんか三島をうまいこと利用している気もしますが、

例えば三島の「英霊の声」にしても、たぶん受け取り方がちがうんんだろうなあ。

(ちなみに私は壮大なパロディだと思っています。本当のパロディは壮絶な批判です)

 

日本のために戦って命を落とされた方々への感謝と敬意は、もちろんですが、それを英雄視するのと、本当に魂鎮めの為にお祈りをするのとは、私はまったく異なることだと思っています。

大まかに言うなら、英霊視するのは主観的であり、エゴの塊、本当に沈潜した感謝の祈りに主体は必要ない。

 

この団体の歴史観は本当に幼稚だとしか思えない。

基本的に明治以降の都合の良い日本文化を引っ張ってきているだけ。

非常に浅薄な知識に寄ってしか成り立たない理屈を、自分たちの思想に都合の良いように構築している。

ごく簡単な例だと、夫婦別姓が日本の伝統を壊すという主張をしているけれども、夫婦の同姓が日本の歴史の中で決められていたのはせいぜい明治以降、150年くらい?それ以前は武士文化の中で家の名というものがあったかもしれないけれども、同様に母方の家の名も重要視されていたわけで、武士、せいぜい商人に迄広げたとしても、とても日本人全員をカバーする文化とは言えない。

 

日本人の、家としての名字が家庭を形成する一つの要素だというのは完全な幻想。

それが大事な人はそこに意義を見いだして、大事にすれば良い。

いまの若い人たちにはその意識すらなくなってきているはずです。それが本当に文化を破壊することに繋がっているのかどうか。本当に幸せな家庭は名字が同じでなければ築けないのか。単純な話だと思いますが。

さらに現在、結婚によって名前が変わることの弊害も出てきています。

例えば論文なんて名前変えてたらわけわかんなくなるので、旧姓のまま出す人がほとんどなはずです。パスポートしかり。

 

その幼稚な幻想による思想が、戦争によってなくなった方を特別視し英霊とかいう、あくまでもこの人たちが使うキーワードとしての言葉にも現れているのではないかと。

 

国のために亡くなった人たちは、すべて国の失政の被害者です。国の舵取りの間違いがなければ死ぬことがなかった人たちです。それを、御国のために命を捧げた人というように、意味なく美化し、論点をすり替えることで、何か大切な、責任とか国のあり方とか、本当に目指すべき平和国家の理想とかを曖昧にしているようで、かなり危険なことではないかと感じます。そりゃ国が権力機構として本当に反省していなければ、すぐに戦争でも何でも、手段としてそれを選ぶことは明白です。現段階では、たとえ武力を使えたとしても、日本人がイスラエルと同じ状況になったとして武力的な解決を図るかと言えば、まだそうしない気はしますが、これがあと50年経ったたらどうか。戦争の悲惨な記憶が、変なキーワードによって書き換えられてしまったらどうか。「お母さん」ではなく「天皇陛下万歳」と言って死んでいったことが真実だとされ、その幻想で教育されてしまった人ばかりになったらどうか。

 

もう一つ、この似非右派だと思う団体の人たちの言説に、本当の文化的な教養を背景にした言説がうかがえないところがうさんくさい。

 

国立大学名誉教授とか、評論家とか、偉そうな肩書きを持った人がたくさんいらっしゃいますが、本当に保守であれば、国学とか更にさかのぼって、大和心とか、

「日本」というキーワードを挙げるなら出てきそうなものがまったく

体系的に出てこない。都合が良いところにご都合主義的に使われていたりしますが。

そして、もしそこまでさかのぼっているのなら、決して「ヤマト」的なものがとても「美しい」ものだとは思えないはずなんですが、なんかことあるごとに、「日本は美しい」という幻想にしがみつきたい人たちばかり。

 

別に美しくなくても日本人であることに、人間として汚い部分も含めて、誇りを持つことはできると思うのですが、こういう思考停止し、浅薄な思想しか理解できない人たちには、「美しい」という有りもしない幻想が必要なようです。民族にしてもしかり。そもそも大和民族なんていうくくりが、本当に存在するのかしないのか。坂上田村麻呂は教えるのに阿弖流為は教えない、この国の教育。最近は教えるのかな?

ちなみに「うまし国」は確かに美しい国とも解せると思いますが、国見における言祝ぎの言葉であって、十戒と同じように、ひっくり返った、そうではない状況というのが平民にはあったのだと、私は思います。

 

いつの世も権力者たちの言説はのんきなものです。