本気で法としてこんなものが必要だと思っているのが大多数だとしたら、
本当にこの国は終わっている。
お子様ランチの旗、アニメや芸術とかはOKだとする案の背後には、
特定の人間に向けた法でしかないということが透けて見える。
子供は対象外だし、日本人として普通に作品を作り、その中での表現なら許容される。
では、誰が罪に問われるのか。
損壊する意図を持って損壊する人間、という風に限定したいんだろう。
自民党もこんなアホな法案の成立を真剣に考えているのだとしたら、
お子ちゃましかいない、幼稚な党に成り下がったということだろう。
嘘つきをトップにいただき振り回されることしかできない哀れな党。
そもそも物と思想を同一視すること事態、幼稚としか言いようがない。
まあ成熟していない大人、というか、資本主義に完全に侵されてしまった脳みそしか持っていないかわいそうな大人。
バブルの頃からそれ以降か、とにかくブランドを身に付ける、買いあさる、そこにしか価値を見出せない幼稚な人間を、雑誌やテレビで取り上げて、その都度批判的な言説をしてきた割には、未だにその意味のないブランド志向、看板がすごければその人間もすごいのだ、という、幼稚な感覚しか持てないかわいそうな大人。
国旗に関する右がかった方たちの国旗に対する執着も、このフェティシズムの変形でしかない。
国旗自体に精神的な何かが宿るわけではない。そこにそういうものがあると思いたい人間が勝手に見ているだけだ。例えば宗教の始まりもそんなものだ。何の変哲もない石を珍しい形だとか何かの関わりを持ってその石が通常状態から分離されたときに、人が勝手にその石に精神性を与えてしまう。
国旗に日本という国自体を顕す精神性を付与することが正しいことかどうか。
国旗を必要以上に特別視すること、その背後にどういう精神性があるか。
良識ある大人なら、普通に理解できるはずだ。
だから分かっている人間はそこに戦争の影を見る。
デンマークの国旗事情に関して、状況が違うと法の成立を肯定するのは、ひとえにその国旗に抱いている幻想的な精神性を汚されたくないからでしかない。そして、その精神性の影に隠れているのは神国日本という、古くさいカビの生えた、本当の日本という国の形をゆがめている、一部の勢力の策略に他ならない。
この国が神国だったことは一度もない。その思想が突然出てくるのは対外的な危機に直面したときだけ。なぜか。日本人の精神性にマッチしやすい排外的思想だからだ。
本来、日本人が根底に持つ、察しと思いやりは共同体の親和性を保つために機能する。そして、日本人の根本的な精神性はこれ以外にはない。農耕民族の少数集落単位で成り立ってきた日本では、基本的には排外的な考えはマッチしない。反勢力を除外しても、その集団が行く先がないからだ。だから朱に交われば、という懐柔する方法をずっと用いてきた。
しかし、そうも言っていられなくなってくる状況がある。その内部自体が乱れてくる場合もそのひとつだし、何かから目を逸らしたい、一つのことに集中させたい。為政者の動機としてはいろいろある。日本に限らず碌なことを考えない為政者がやる方法でしかないが、仮想的を作ってやれば、特に日本のような内に親和性を持つ国では、それがあっという間に定着してしまう。
その敵は本当の敵か。
だからこそデンマークでは自国以外の国旗の損壊罪はあっても自国の国旗に関してはないのだろう。
自国の国旗を損壊した相手、どう考えても自国民を想定してはいない。ここに異を唱える輩もいるだろうけれど、そこをぐだぐだ言っていること自体がみみっちい。どこにも行くことのできない自分の出自に拘っている人、でも日本に住んでいればもう日本人だろう。それを懐柔できないことの方が情けないと思わないのか。そして、旗を傷付けられたと騒ぎ、好んで積極的に敵を作ることの馬鹿馬鹿しさ。ここに何のメリットがあるのか。耳くそみたいなちんけなプライドを満足させるくらいの効果しかない。そもそも燃やす相手も「燃やしたら日本人が顔真っ赤にして起こるだろう」くらいな精神性しか持ってない相手。そんなのを本気で相手にする意味はあるのか。その行為自体が許される行為ではないのは確かだし、そのことをスルーすることで得る不利益があることも分かるが、だからといって国外にまで通用する法でもないもので遺憾を表明したところで、まともな人間が相手にするだろうか。結局国内向けの統制でしかない。
日本という国旗に象徴される、日本という国の誇りは、高が物でしかない国旗を燃やされたぐらいで損壊されるようなものか。逆にその程度のことで目くじらを立てていることの方が、日本人としてみっともないことではないのか。自分の日本人としての誇りはどこにあるのか。