いいわけはないのだが、

 

 

ただ、結果を考えると、ますます教育(内容)格差が広がっていくと思われ。

 

今でも教育の格差はたとえ親が大卒とかでもかなり感じます。それは質とか量だけの問題ではなくて、その内容の偏り、とにかく功利主義的な親が増えてます。

結局金が稼げて何ぼや、という方たちにとっては文学や古典は何のくその役にも立たない。学ぶ意味の見いだせない教科、科目ということになり、無駄だと言うことです。話した親の中にもはっきりそう言ってしまう親がいました。

もうそういう価値観の人たちに、文学やその他、実学ではない学問の重要性をいくら説いても、そこに意味を見いだせないので無駄なのです。

社会的にはこのあたりの価値は没落していくでしょう。漱石鷗外は昔の偉い人であって、そこから何かを、人間としての何かを学ぼうという姿勢はもう、社会的にはなくなりつつあると思った方が良いです。活字離れという言葉すらなくなっている現状。

それに対抗するためには、自分自身の価値観を確固として持つしかない。

学校ではもう文学を教えられないので、各家庭で、親が重要だと思うなら、たくさんの小説を読ませるようにしなければ、本当に日本は心も物質的にも貧しい国になってしまうだろう。

どっかの馬鹿が、美しい国とかほざいて教育改革した結果がこれです。

問題があると思うなら、自分の身近から行動してほしいです。

小さな頃から活字に触れる環境や機会を与えていれば、活字嫌いにはならないです。

子供は本当におもしろいと思うものには、自分から勝手に突き進んでいきます。

そして、絵本や児童文学を初め、本当に優れた文学は、おもしろいものです。

 

ちなみに、文学国語を削ってまでお国がやりたいことはこれです。

https://www.dnc.ac.jp/albums/abm.php?d=511&f=abm00003142.pdf&n=1-2_%E8%A9%A6%E4%BD%9C%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%80%8E%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E3%80%8F.pdf

 

来年度から実施される大学入試共通テストの試作問題ですが、これが国語の問題として取り入れられます。

もう?です。他の教科、例えば地理などでも資料読みはやりますし、これが国語だと言われても私は?でした。これは国語ではなくて、情報処理だと思います。

つまり、御国はもう文字を人間活動すべての土台となるものとは考えていず、

情報を伝えられる物としてだけ活用できれば良いと考えているのだな、ということです。

まあ、そんなことは教育でどんなに歪曲しても不可能ですけどね。ただ、この教育課程で育った子供たちがどうなるのかは、とても恐ろしいです。今でも、活字離れ、その代替物にすら触れていない子供たちの想像力の低下はある程度言われていることです。ますます想像力の貧困な子供が増えるのではないかと危惧します。