NHK-FM「音楽の泉」の聞き逃し配信、本日2月24日早朝の放送分を聴く。言わずと知れたベルリン・フィルのフルート奏者、エマニュエル・パユの特集。奥田先生、チョイスが素晴らしすぎる。

イベールのフルート協奏曲。いつものように、奥田先生の楽曲解説が勉強になるので、聴く前のワクワク感がいつもより50%は増しになる。イベールは、ご多分に漏れずデュトワ&モントリオール響盤が我が愛聴盤。ソロは同団首席のティモシー・ハッチンズが務めていた。

さて、パユのフルートは、どのように聞こえるのか。


イベール:
フルート協奏曲

エマニュエル・パユ(Fl.)
デイヴィッド・ジンマン指揮
チューリヒ・トーンハレ管弦楽団
(2014,EMI)


息と一緒に魂まで放出されている。その軌跡まで目に見えた、ほんとうに。

エクトプラズム〔ectoplasm〕

この単語を、僕は、おそらく中学生の時に東京12チャンネルの心霊番組で知ったのだ。

インターネットや電子メールのない時代は、放送局へよく問い合わせの電話を掛けた。なかでも、Mという悪友と東京12チャンネルに電話して制作担当者と、よく話をした。

めちゃくちゃイヤがっている雰囲気は電話越しでも伝わってきたのだけれども、それでも「真剣に」質問する中学生の僕たちに、「真剣に」答えてくださった。いま考えれば良い大人たちである。

脱線したが、パユからは、なんでか、エクトプラズムを感じちゃったのである。この単語を想起したことは、自分でも驚きだ。だって、こんな言葉、40年間、目にしたことも、使ったこともなかったのだから。それを、パユのフルートで、パッと連想しちゃったんだから。

FM放送、しかも音の悪い「らじる★らじる」なのに、それを感じ取れたということが凄い。いな、僕の妄想力が凄いだけなのかもしれないが…。

後半には、サイモン・ラトル指揮/ベルリン・フィルによる《牧神の午後への前奏曲》も放送された。

 


あくまで録音のせいであり、生音とは違うと思うのだが、パユのソロは、煌びやかで「自然」な方向、というよりは、ある種の「作為」を感じるのだ。

作為と日本語で言うとなんかいやらしい打算的なニュアンスになってしまうが、本来の漢語の「作為」は広い意味で「人がする」こと全般を指している。

例えば、「作」という漢字は、日本語で訓読する際には「作(な)す」と読む。

つまり、「作為」はアーティフィシャル〔artifitial〕という意味なのだ。(「A.I.」は、Artificial Intelligenceの頭文字だ)

芸術〔art〕とは、「ありのままの自然に抗して、人類が未来を美しく生きていくために、自らの精神性によって作り上げていく諸活動、および作品」を指すと思う。

パユのフルート、そしてベルリン・フィルの一音一音からは、そのような精神性を、いつもいつも感じるのだ。そして、いつもいつも圧倒される。

2000年代初めごろ、つまり、サイモン・ラトル時代のベルリン・フィルも良かった。いま、ちゃんとしたオーディオで一番聴きたいのは、小澤征爾が振ったチャイコフスキーの《悲愴交響曲》(2008年)のライブである。ブルーレイディスクは持っている。

 


しかし、僕はCDで聴きたい。NHKからの音源提供で、ドイツ・グラモフォンの黄色いレーベルで出してほしい。そうすれば、みな、所有する価値も高まるだろう。

 

今日のパユの演奏は、カセットテープに録音した。これで何度も聴けるので、嬉しい。カセットデッキも、使ってやらないと、いつ壊れるか分からない。