婚約して新居に入った時に購入したファクシミリ機(九州松下電器製)を廃棄することにした。かつて、福島に転居した後に、一度だけ現地のナショナル・ショップに持ち込んで修理した履歴があるが、それ以降は、子機のバッテリーを交換しながら使っていた。

 

 

1999年(平成11年)製造のファクス複合機。25年も使ったのだから、よくがんばったと思う。ありがとう、さようなら。

 

ここのところ、音声にノイズが混じって聴き取りが不明瞭になっており、ボタン類の反応も悪く、タクトスイッチの不良と思われるような挙動を繰り返していた。家庭用ファクスは、もう使うことはないだろうし、今どきはみんな携帯電話で連絡を取り合うから、使用頻度は低かった。

 

場所も取るし、25年を機にスッキリ買い替えることにしたわけである。

 

新たに購入したのは、フツーの留守電機能付きの電話機。9,000円という安さで、子機までついている。

 

 

 

 

液晶表示部。25年前とほとんど変わっていない。最高。

 

使い勝手も音声も、最高である。これで、あと25年は大丈夫であろう。

 

ところで、「九州松下電器株式会社」は、「Panasonic」ブランドを付けてファクシミリ機を製造していた会社である。今は、九州ではなくて東京に本社がある「パナソニック コネクト株式会社(英:Panasonic Connect Co., Ltd.)になっている。

 

新しい電話機がどこの会社で作られているかは不明である。一昨年の整理統合などで、パナソニックは、今まで以上に分かりづらくなった。電話機の裏には「マレーシア製造」とあった。

 

そういえば、昔、「松下寿(ことぶき)電子」という会社が四国にあった。何かの松下関連の本に「赤外線コタツ」を初めて作った会社だと書いてあった。おまけに、独自のビデオデッキ(VTR)も作っていたという。日本ビクターが考案した「VHS」規格を創業者(松下幸之助)が採用したために、世間には認知されなかったのだとか。

 

僕はこの「寿電子」製のデジタルコンパクトカメラを1997年ごろに所有していた。画素数は、おそらく30万画素とかだったのではないか。メディアが何だったのかも忘れた。あれを取っておけばよかったな…と今は後悔している。

 

その後、松下電器は、ドイツのライカと手を組んでルミックス(LUMIX)を展開していく。「寿電子」の中の人にとっては、忸怩たる思いだったのではないかな…などと考えてしまう。

 

ところで、25年前の新婚時に買った「松下」製品は、我が家にはあと一機、残されている。家庭用冷蔵庫である。ブランドは、当然「National」が付されているが、製造は「松下冷機株式会社」だった。

 

松下冷機の前身は「中川機械株式会社」である。この提携の時のエピソードが心を打つ。

 

91. 中川機械(株)と提携

    1952年(昭和27年)

 

電化時代の到来をいち早く予想して、松下電器は、戦後、中断していたテレビの研究試作を再開、昭和26年9月には、洗濯機の生産販売を開始した。それに続く大型電化製品として、冷蔵庫の開発をも進めていた。

たまたま、昭和26年8月、工作機械の専門メーカーとして知られ、戦後、進駐軍用の冷蔵庫を生産していた中川機械株式会社から提携の話が起こった。経営者の中川懐春氏と会って話をしてみると、てきぱきとした言葉で、会社の実情を説明し、「引き受けて下さるなら、無条件で一切をお任せします」と言った。自分の利害を超越した、まことに恬淡とした態度である。社長は心を打たれ、資料を求めることもなく、また工場も見ずに、即座に提携することに決めた。

昭和27年2月、提携が成立。翌年8月、中川機械は、社名を中川電機株式会社と改称、その後、松下電器との関係もさらに深まり、昭和47年11月、松下冷機株式会社となった。その間、常に新しい生産技術を導入するなど合理化を行い、他に先駆けて一般家庭用の機器を開発、冷蔵庫などの普及発展に大きな役割を果たした。

 

「松下幸之助の生涯」より

 

 

我が家は3回の引っ越しを経験したが、National(松下冷機製)の冷蔵庫は、一切の不具合がなく、25年経っても元気に稼働中である。(普通、冷蔵庫を必要以上に移動させるとコンプレッサーの媒体が異常を起こし寿命が短くなるとされる)

 

松下幸之助の中川電機に対する見識は、まことに鋭かったのだと痛感する。