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昨日の追補のような記事になってしまう。音楽鑑賞の日記は明日までお休みの予定。
◆『##NAME##』児玉雨子
(『文藝』2023年夏季号)
早くも単行本になって書店に並んでいる。自らの「NAME」が自分を決定づける。とても恐ろしい話である。『文藝』の今月号に載っていた尾崎世界観の小説『電気の水』でも、ネットでの「検索」「エゴサ」がテーマになっていた。僕は10年以上前、採用担当をしていたとき、書類選考の前に応募者一人ひとりの名前でgoogle検索をかけていた。これでヤバイ人間を回避できたことが2回もあった。ボスからはファインプレーと褒められた(いえいえ、今の時代、当然のことですよ)。ヤバイ人間を回避するのは当然としても(教育業界にはこの手のヤバイヤツが少なからずいる)、この話のように本人に責任がない場合だったら、どうする? 2011年4月~5月ごろ、住んでいた(働いてもいた)福島では、「福島のナンバーを付けていただけで、パーキングエリアの隣には誰も駐車してこなかった」とか「すれ違いざま、放射能はあっちへ行けと言われた」などという首都圏での体験談がまことしやかに語られていた。あれは本当だったのだろうか? たしかに、横浜市立中学校で福島から転校してきた生徒にイジメがあって、実際に教育長や市長が謝罪したという事件はあった。しかし、福島というNAMEが、大袈裟に独り歩きしていたようなところはあった。そして、それはいまだに収束していないような気がする。
◆『いい子のあくび』高瀬隼子
(「すばる」2020年5月号)
気になる作家さんは続けて読んでしまう。芥川龍之介賞を受賞した『おいしいごはん―』より前の作品だ。ああ、わかると思った。作風がわかった。作風というか文体といってもいいだろう。やっぱり高瀬隼子の中の人は「いい子」なんだと思う。「あくび」ってそういう意味か、納得。と本文を読んで合点した。たしかに、僕もそうしてしまうタイプの人間だ。作中の大地さんに近い人間かもしれない(職業も一緒だ)。たぶん直子さんも本当は大地さんにめちゃめちゃ近い人間なんだと思う。でもそう思いたくない自分がいる。「自分だけバカをみている感」が強い人なのだ。『おいしいごはん―』の二谷さん、押尾さんと同じタイプの見方をしちゃう若人なのだ。うまいなあと思ったのは直子さんが水をあげたおじいさん。世の中に見返りを求めるのかそうでないのか、うまい具合に象徴化された挿話だった。