音楽空間への誘い―コンサートホールの楽しみ
日本建築学会・編
(2002年,鹿島出版会)
Aというホールについて、演奏者はどう感じているのだろう。Bというホールは、どうしてあのような設計になったのだろう。
ホールについて知りたいことはたくさんあったが、この本を読み終えた後の結論は、「意見は千差万別」ということ。
だから、「自分にとって」心地よいと思えるホールに「一等賞」をあげて、そのホールとともに歩んでいくのが幸せなんだと思う。
本書は20年も前の本だが、これに代わる新しい考察は、書籍としてはまだお目見えしていないようである。
本の後半は、ホールを文化拠点として捉えようとか、街の中心にホールを造ろうとか、社会的なテーマが進んでいく。
僕が面白く読んだのは、前半の指揮者(井上道義、高関健、大友直人)、ソロ奏者(千住真理子、仲道郁代)との対談と、オケマン(東響/首席フルート:相沢政宏、新日フィル/元コンマス:豊嶋泰嗣、新日フィル/元首席ティンパニ:近藤高顯、新日フィル・ホルン:金子典樹ほか)による座談会の記事だった。
この本を入手して読もうとした裏のモチーフとして、「すみだトリフォニーホールって実際どうなの?」という疑念があったのであるが、聴衆視線での意見が皆無の内容ゆえ、参考にはならなかった。
ただ、新日の関係者が一様にトリフォニーホールを褒めているのは確かである。ステージと客席とで音の差異が少ないとか、客席からみたらステージが遠く見えるのに、音は近く感じるとか。シャルル・デュトワがN響を指揮してプロコフィエフ《ロメオとジュリエット》の録音を行ったのが、すみだトリフォニーホールだったが、DECCAのエンジニアがここを選んだ理由は、そのあたりにあったのかもしれない。
本書に見る「新しい考え方」として、ちょっと驚いたのは、ホールによって相応しい音楽(作曲家)がある、と断言する音楽家がいたということだった。曰く、サントリーホールではベートーヴェンやショスタコーヴィチはやりたくないという。言わんとすることは、なんとなく理解はできるのであるが、ちょっと「精神的すぎる」のでは、と違和感があった。「音楽」をより「音楽」として楽しみたい僕には、まだ到達できない境地とでも要約しておこうか。
たとえば、小澤征爾&サイトウ・キネン・オーケストラのベートーヴェン交響曲全集。松本の長野県松本文化会館(キッセイ文化ホール)で収録されたものがほとんどであるが、なんでこんなにデッドなの? と僕は発売が始まった当初は思っていた。
しかし、あれは小澤征爾やプロデューサーのヴェルヘルム・ヘルヴェックが、「わざと」そうしたんじゃなかったかと、今なら思うことができる。残響だって、今日のデジタル技術を使えば不自然なく付加することは可能だし、もっと高音がすっきりするようにイコライジングすることも出来たはずだ。それをしなかったのは、重厚感と塊感のあるベートーヴェンを残したかったからであろう。
小澤征爾は、ドイツ音楽には強い「こだわり」があったという。ボストン交響楽団の音楽監督時代も、何度となくベルリン・フィルを指揮していたはずだが、その度ごとに、自身の目指す音としてのドイツ的な「重厚さ」へのあこがれが、強くなっていったのではあるまいか。
ボストンで難しいならサイトウ・キネンで…というのは自然の流れだったのかもしれない。
ということで、今なら僕も、先の「ベートーヴェン交響曲全集」を肯定的に受け止めることができる。だから、サントリーホールではベートーヴェンを演奏したくない、という音楽家の気持ちも分からないわけではないのである。
でも…。
「弘法筆を選ばず」「藪医者の薬箪笥」「下手の道具調べ」
という俚諺もあるからなあ…。
さて、この本には僕の好きな「ミューザ川崎シンフォニーホール」のことは書かれていない。発売時に、まだホールがなかったからだ。その後のホール事情ということで、この本の続編が出されたら、ぜったいに読みたいと思っている。

