音楽の友 2022年6月号
ちょうど一か月遅れで「音友」の小澤征爾特集を読んだ。図書館で借りてきたことがバレバレである(笑)
いまひととおり読み終えたが、正直、自腹で買わないで正解であった。内容が薄すぎる。新しい情報などほとんどなく、小澤の生い立ちとか(みな知ってるわい)、過去の記事からの焼き直しとか、そして、あんまり役に立たない座談会でページが埋められていた。
小澤特集をやると、きっと「売れる」んだろう。かつて、ウィーン国立歌劇場がアメリカから、「日本人の」小澤を招聘した理由と変わりゃしない。
でも、座談会の中で納得いく内容もあった。
まず、小室敬幸氏の一連の「アンチ発言」。小室氏は1980年代生まれの評論家・大学教員だそうだ。おっしゃる内容がすべて「正論」すぎて、読んでるこっちの方が恥ずかしくなる。
私は、小澤征爾の指揮する音楽は、なるべく動画を見ないことにしている。常に音源のみで聴いている。そうすると、あら不思議、音楽に流れが生じて、とても良い具合に聞こえる(ときもある)。
‟アンチ”の小室氏に究極にオススメするのが、サイトウ・キネン・オーケストラとのベートーヴェン:交響曲第5番《運命》(フィリップス)である。何かに急き立てられるかのように、凄い速さで終結する。こういう思い切ったことも、(たまには)小澤はやるのである。それから、同じくSKOのショスタコーヴィチ:交響曲第5番(フィリップス)も良い。オケ内に名手がいっぱい居るからなのかもしれない。特にバストロとティンパニが最強である。「交響曲第5番」つながりで、ベルリン・フィルと吹き込んだプロコフィエフとチャイコフスキーも良い。
次に、山田治夫氏の推した盤が、ボストン響と録音した「シャブリエ《狂詩曲スペイン》」(グラモフォン)であること。この盤は、僕もお気に入りで、収録されている全曲、素晴らしい。《パリの喜び》は、ディトワ盤の方がやや好みだが、グノーの《ファウスト》も、トーマの《歌劇ミニョン序曲》も素晴らしい。打楽器の使い方(というか録音の聞かせ方)が上手いのだと思う。デュトワは打楽器をあまり叩かせないから、ビート感があまり強烈にならないのは良いのだが、タイコ叩きの僕からすると、「ちょっと物足りない」と思うときがあるのだ。
シカゴ響との《運命》《未完成》
といいつつ、今日、音友を読みながら聞いていたのは、上の《運命》と《未完成》のレコードであった。(そうだ、小室敬幸氏には、小澤の音楽をぜひアナログ・レコードで聴いてもらいたいものだ!)
しかし、この《運命》は、いつ聞いてもぜんぜん面白くない(笑)
一方、裏に入ってる《未完成》はけっこう興奮する。アナログ時代の録音は、アナログで聴くに限る。幸い、クラシックのレコードは、初期盤や輸入盤でない限り、高騰しない。これがジャズや、ロックだとお手上げだ。ハービー・ハンコックの《処女航海》とか、ジョン・コルトレーンの《ブルー・トレイン》とかのLPを買おうと思うと、国内盤だろうが再版だろうが廉価版だろうが、定価と同じくらいのプライスがついている。ザ・バンドの《ミュージック・フロム・ピンク》や、マイケル・ジャクソンの《バッド》、ドナルド・フェイゲンの《ザ・ナイト・フライ》も、レコードが欲しいのだが、まだ入手出来ていない。お金がもったいないから、CDで我慢しちゃう。
その点、クラシックのレコードは安い。先日も、アンセルメの一連のデッカ/ロンドンの名盤が、横浜のブックオフで各500円で売っていた。買わなかったけど(笑)
ところで、6月14日(土)、すみだトリフォニーホールで、シャルル・デュトワ指揮/新日本フィルハーモニー管弦楽団を聴いた。
しかし、ブログに投稿するほどには、まだ言語化できていない。いろいろな面で、もやもやする。いずれ、ここに書き留めなくてはならないとは思っているのだが…。
話を戻して、「音楽の友」6月号の小澤征爾特集。冒頭の山崎浩太郎氏の文章に、僕は首肯せざるを得なかった。曰く…
小澤が長嶋茂雄や石原慎太郎など昭和半ばの大スター、ヒーローたちと同種の、場を一瞬にしてさらってしまう、どうにもならないスター性の持ち主であることも実感した。
ベルリン・フィルの「デジタル・コンサートホール」で観た小澤指揮の《エグモント序曲》には、実は僕も鳥肌が立ったのである。関連動画としてリンクされていた、第一コンサートマスター:樫本大進との対談インタビュー(日本語)の内容にも。
樫本大進も、ほんとうに感動していた。オケのコンサートマスターが言うんだから、楽員からの信頼は相当なものなのだろう。「音友」の記事では、「ちょっとやりすぎた」ほどだったと書いてあった。コンマスの本音は興味深い。指揮台に登っただけで音が変わる指揮者なんて、21世紀の今ではほぼ皆無なんだから、それだけで、小澤の‟大勝利”ではないか。
たぶんだけど、ベルリン・フィルの楽員たちは、小澤の背後にカラヤンやバーンスタインやマゼールやアバドといった、今は亡きカリスマ指揮者の姿を見ているのではなかろうか。
1980年代生まれの音楽家(または音楽評論家)にとって、小澤はすでに「レジェンド」なのだ。クラシック音楽の全盛期(少なくとも録音芸術としてのクラシックの全盛期)に、他のレジェンドたちと伍して立っていた小澤は、存在そのものが神聖化されているのである。
そりゃ、来るだけで音が変わるわけだ。先年のデュトワが指揮したセイジ・オザワ・フェスティバルにおいても、小澤は舞台袖で腕を動かしていたらしい。デュトワの心中を考えると、ちょっと出しゃばりすぎのような気がしないでもないが、コンマスの豊嶋泰嗣は、それでオケの音が変わった、と真面目に証言している。
なんか、フルトヴェングラーの評伝みたい。
ともかく、「長嶋茂雄」なんだ、小澤は。「(バッティングの秘訣は)来た球を打つ」とか「(打つ時には)シュッと打つ」など、迷言の多いミスターだが、そんな指導のコトバに、何の意味を見出す必要があるというのか。ミスターがウインド・ブレーカーを脱ぎ、「3」の背番号を露出させただけで、オープン戦の球場のスタンドはざわめき、選手はモチベを挙げ、次の日のスポーツ新聞が売れるのである。
こんな指揮者、小澤以外に日本人で他にいるだろうか。
何十年たっても、山田和樹では無理じゃないかと思う。時代が、そういう指揮者を求めていないというのも大きいが、まあそれ以前に、カリスマ性というものを彼からは感じない。それは、音楽的才能とか、創出される個性的な芸術の優劣とは無関係なものなのだ。
小澤征爾、兄弟と語る
まだ買っていないが、読みたい本だ。あるいは図書館で借りるかもしれない。ちらと立ち読みしたが、面白そうだ。小澤征爾という人間の芸術性を知るには、こういう本が格好である。
かつての村上春樹との対談本が良かったのは、そういう部分に於いてだ。指揮者としての技術的な部分が語られていて、興味深かった。