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マーラー/
交響曲第6番イ短調《悲劇的》
 
小澤征爾 指揮
ボストン交響楽団
(1992,Philips)
 

 
生徒が演じ、教員が撮影して完成した自主制作の映像作品を観た。当人たちは「SFスペクタクル超短編」と銘打って上映していた。うら若き勇者が二人だけで「悪党」に立ち向かって行くシーンなど、要所要所に印象的な映像が散りばめられていた。こういうのを見ちゃうと、僕の眠れる映像表現欲求が、めらめらと燃え上がってしまうのであった。
 
印象に残るシーンには、BGMがうまくマッチングしているものである。
 
「何ていう曲を使ったの?」
 
後で監督に訊いてみた。良い曲だったから、CDを買おうと思っていたのである。
 
教えてくれた音楽の名は、某ゲーム音楽をオーケストレーションして実際に生オケで吹き込んだ音楽集であった。一定の人気があるらしく、ゲーム音楽が新しくなれば、それに合わせてオケ・ヴァージョンも次々と新作を出すのだそうである。
 
それを聞いたら急に冷めてしまった。
 
音楽を聴いているときに感動しても、終わったら記憶に残らない音楽というものがあるのだと思う。いや、少し違う。没頭しているときに分かっても、冷静になったらよく理解できない音楽…と言い換えても良いかもしれない。
 
ゲーム音楽とは次元の違う話だが、今回、マーラーの交響曲6番《悲劇的》を聴いて、ああ、この曲は「没頭して愉しむ類の音楽」なんだ…と感じることができた。美しいメロディーがあるわけでなし、特徴的なリズムがあるわけでもない。
 
ただただ長大で、音のスペクタクル巨編。
 
小澤指揮のボストン響は美しい。その美しさに耽って、じっとスピーカーと対峙していると、それを為す者だけが到達できる境地があるような気がしてくる。
 
言い換えると、非常に主観的。後から考えて客観化できるような、いかなるコトバもここでは有効ではない。つまり、マーラーの音楽は語ることを許さないのだ。
 
合わせて買ったブルックナーの8番(ヴァント盤)も、僕にとっては同様。仮にマーラーの交響曲の何楽章かと交換して聴いても、僕は違和感を覚えないであろう。ブルックナーについては、後日、記そうと思うが、没頭して聴くと感動的な音楽だ。
 
ボストン響のティンパニーと打楽器、金管楽器の音色に没頭するのもありかと思う。