お久しぶりです!先日札幌から東京に帰って参りました。

あっという間の札幌での一週間でしたが、リフレッシュする事ができました。

さて、本日はラジオの思い出のラストとして、STV経由で聴いていた、ニッポン放送の番組について書いていきたいと思います。よろしくお願いします。


ニッポン放送の番組で聴いていたのは、やはり『オールナイトニッポン』である。

当時のパーソナリティでは、ビートたけしさんやとんねるずのお二人等のメジャーな方も聴いてはいたが、特に熱心に聴いていたのは、まだそれほど有名ではなかった、鴻上尚史さん、大槻ケンヂさん、伊集院光さんのお三方である。

当時の鴻上尚史さんは劇団第三舞台を率いる気鋭の演出家で、『ドラゴンクエストⅢ』のエンディング曲に歌詞を付けて自ら歌ったCDをリリースしたり、『絶対に食べないといけないとしたらどっちを選ぶ?カレー味のうん●と、うん●味のカレー』の二者択一から始まり、書籍も発売されてかつバラエティー番組も放送された『究極の選択』コーナーで人気を博した。

『究極の選択』は自分も書籍を購入したが、文中の質問で今でも覚えているのは『マイク・タイソンに一発だけ殴られるのと、小学生に一日中殴られる』である。

鴻上さんが番組内で『売れている芸能人の息子もいるけど、たとえば売れていない演歌歌手の息子はどんな感じなんだろう?』と発した所、鏡五郎さんの息子さんから投稿があり、息子さんは『鏡五郎の息子』の芸名でCDデビューを果たした。

息子さんのおかげで、父親の鏡五郎さんも名前が知られる様になり、オールナイトニッポンでは鏡五郎さんの曲のCMが流れた。

最後は鏡五郎さんの『おしどり人生』と息子さんの『Jr.からの手紙』のチャート争いの結果、鏡さんが勝利を納め、敗れた息子さんは引退するに至ったのを覚えている。

番組終盤では鴻上さんが、当時は骨太で男臭かった辻仁成さん率いるECHOESの『ONEWAY RADIO』の曲に乗せて
、真面目なトークをするのだが、最後に『泣かない様に、負けない様に、いい夢を見るんだよ』の一言で締めくくっていた。

番組の最終回ではその一言を『泣かない様に、負けない様に、いい夢を見てください』と語尾を変えていた。

その一言で、鴻上さんの温かいお人柄が痛い程伝わってきたのを今でも覚えている。


大槻ケンヂさんもやはり筋肉少女帯(筋少)を率いる気鋭のミュージシャンだった。

筋少のベーシストの内田雄一郎さんと『まんが道』というユニットを結成して『ボヨヨンロック』をリリースしたり、ゲストで出演した、当時売り出し中の歌手だった岩田麻里さんを邪険に扱ったり、女性のリスナーに際どい事を言わせたり、はたまた珍曲をリスナーから募集したりと、色々なコーナーをやっていた。

『ボヨヨンロック』は筋少のおどろおどろしい曲とは180度違うコミックソングで、当時の人気バンドだったジュンスカイウォーカーズの宮田和弥さんと森純太さんもゲストミュージシャンとして参加していた。

珍曲コーナーでは杉良太郎さんの『君は人のために死ねるか』や、山崎ハコさんの『呪い』、山本リンダさんの『奇跡の歌』がインパクトのあった楽曲として記憶に残っている。


伊集院光さんはオペラ歌手の肩書きで番組に出演されていて、自分もそれを信じていたが、ずっと後年になって実は落語家出身だという事を知った。

伊集院さんが番組で行った最大の功績は、架空のアイドル『芳賀ゆい』ちゃんをプロデュースした事であろう。

『ポニーテールが似合う美少女』という触れ込みで『CDデビュー』したゆいちゃんは番組にも出演したりしたが、何人もの女性がゆいちゃんを演じていた様である。
 

以上、簡単ではあったが、昔聴いていたラジオを振り返ってみた。

今はラジオどころか、テレビもろくに見てない有様だが、いつかまたのんびりラジオを聴ければと思っている。













こんばんは!本日より、昨日までの北海道ローカルに続いて、全国ネットのラジオ番組の内、まずはHBC経由で聴いていたTBSラジオの番組について書いていきたいと思います。よろしくお願いします。


当時のTBSの番組でまず頭に浮かぶのは、深津絵里さんをはじめとする、当時のアイドルが日替わりでアシスタントを務めていた、太平サブローさんの『ラジオガルーダばりばりマッシュルーム』である。女性リスナー限定で電話を受け付けていたのが印象的だった。

深津さんは当時高原理絵名義でも芸能活動をしていたが、恥ずかしながら当初2人が同一人物だとわからずに若干混乱してしまったのを覚えている。

他のTBSの番組では、構成作家の鶴間政行さんとの絶妙なやり取りが印象的だった、斉藤洋美さんの『ラジオはアメリカン』や、関根勤さんと小堺一機さんの『コサキンのスーパーギャング』をよく聴いていた。

スーパーギャング終盤に流れる小堺さん歌唱の名曲『WITH』は、歌手としての小堺さんのファンになるきっかけになった。

夜通しでテスト勉強をした時は当然ながら早朝のラジオを聴く事になるのだが、その時に聴いていたのは榎さんこと榎本勝起アナウンサーの『榎さんのおはようさん』である。

ちなみに当時のクラスメートの中に、榎さんの事を『えのん』こと、ジャンプ放送局の榎本一夫さんと勘違いしている人がいて、思わず心の中で笑ってしまったのを今でも覚えている。(続く)
こんばんは。昨日のHBCに続いて、今日はSTV(札幌テレビ、日本テレビの系列局)ラジオを聴いた時の思い出を書いて行きたいと思います。よろしくお願いします。


STVラジオの番組で最初に思い浮かぶのは、明石英一郎アナウンサーの、アナウンサーとは思えない程の過激なトークとコーナーが人気だった『うまいっしょクラブ』である。

当時20代後半だった明石アナはまさに怖いもの知らずという感じで番組を進行していたが、局のお偉いさんが番組を今、聴いているという情報が入ると、さすがに一社員に戻っていた。

当時は札幌の地下街であるオーロラタウン内に、STVのサテライトコーナーがあって、うまいっしょクラブの広報誌を無料配布していた。

サテライトコーナー内は確か無人だった為、リスナーが広報誌をもらおうとしたら、他のリスナーにある分を全部持っていかれたりとトラブルもあった様である。

自分も一部だけもらった事があるが、リスナーが投稿した、『自分のおばあちゃんの小学校の卒業名簿にすごい名前の人がいる』という、明石アナが大爆笑のあまり、名前を読めなかったネタが誌面に載っており、証拠として『渋○ウ○コ』と名前が書かれた卒業名簿の名簿の写真が伏せ字なしで掲載されていたのを見て、自分も大爆笑してしまったのを覚えている。

STVの番組で、次に思い浮かぶのは、現在も放送されている深夜番組『アタックヤング』である。

当時のアタックヤングはSTVの局アナや、タレントの方がパーソナリティを務めていた。

局アナのパーソナリティでは、当時の桂三枝さん、今の文枝さんの物まねが得意で柔らかな語り口と番組終盤での真面目なトークが好感を持てた千秋幸雄アナウンサー、男がすね毛を剃る事の是非について、番組で取り上げていた片山雅子アナウンサー(ご本人は当然反対していた)、後年になって大泉洋さんとの共演で人気を博した木村洋二アナウンサー(ちなみに、自分が木村アナを初めてテレビで見たのは、11PMで北海道のUMAのクッシーの被り物を被って登場した時で、ラジオのトークと外見とのギャップにびっくりさせられた)、元気いっぱいのキャラクターが魅力的だった坂本咲子アナウンサー、そして中高生のリスナーの兄貴分的存在だった、『もりりん』こと森中慎也アナウンサーが今でも印象に残っている。

森中アナは現在、母校の日大芸術学部の教授を務めていて、番組中でも日芸時代のアルバイトの話もされていた。

また、森中アナが逆回転でテープに吹き込んだ官能小説の内容をリスナーに出題し、女性リスナーが吹き込んだ回答を放送するというコーナーもやっていた。

タレントでは、世間知らずのリスナーに対して厳しく向き合った林家しん平さん、松山千春さんの物まねが得意だったみのや雅彦さん、当時から北海道のローカルタレントのボス的存在だった田中義剛さん、そして『愛は勝つ』をヒットさせたKANさんがやはり今でも印象に残っている。

KANさんは、当時のSTVの人気アナウンサーだった、今中麻貴アナウンサーのファンだと公言した為、今中アナの熱心なファンの反感を買ったり、アマチュア時代に組んでいたバンド『ミートルズ』の音源を流していたのが特に印象的だった。

他の番組では、秋元康さんの師匠にあたる、奥山コーシンさんの『日よういっぱい生ワイド』や松山千春さんの『風に乗せて』等も聴いていた。

松山さんは、夜のヒットスタジオで毒舌を吐いた理由を『聴かせる歌を歌える歌手が少ない』『スターになるのと打ち上げ花火になるのは違う』と説明したり、40代で閣僚入りした鈴木宗男さんを若手のホープとして、当時から応援していたのが印象的だった。(続く)