今の世の中、チャンネルをひねれば、原発や失業、事件、事故、高齢者の問題などなど…我々の生活を脅かす内容のものが、毎日、テレビで報道されている。
そんな混沌とした先行きの見えない不安におののきながら、目に見えないものへ頼って、生き急ごうとする人たちがいるのも、当然な事なのかもしれない。
私の廻りにも、そんな不安を解消する為に、占いを長く信じてやっている者がいる。
占いは、芸能人ではないけれど、一旦のめり込んでしまうと、すべての行動を、それに頼ってしまい人生を狂わせてしまう場合も多い。
占いには、当たるも八卦(はっけ) 当たらぬも八卦 という言葉がある。
八卦とは中国の「陰陽思想に基づく言葉」。つまりは、占いは当たる場合もあれば、当たらない場合もあるということ。
沢山ある占いの中に『四柱推命』という占いがあるけれども、自分の場合は、振り返ると確かにこれで、当たってたんだなぁ思うことがいくつもあった。
仕事で大きな転換を迎えると書かれていた年齢の時に転職したり、母の病気・怪我に注意とかかれた年には、その母が交通事故に合い、指を骨折、その翌月に転んで、今度は腕を骨折。
それから、今度は別の病気で入院…
祖母の死とかかれた年月に、本当に祖母が亡くなったり…
事実だけ見ると確かに、ドンピシャで当たっていたことを記憶している。
でも、いい事は信じて、悪いことは信じない、そんな程度だったらいいけれど、まだ起こってもいない未来を憂いで、ビクビク不安を抱えながら『どうしたらいいですか?』なんて占いの先生に、事あるごとに自分の人生をゆだねて生きる、そんな人生って、自分の人生を生きていないからつまらないと思う。
仏教では、人間として生をうけることの得難いことを、大海の中の一本の針を探すことや、須弥山(しゅみせん)の山頂から垂らした糸を山麓の針の穴に通すことに喩えている。
そんな天文学的な確率でしか生まれて来ることができない人間。この人間でなければ、幸福を求めることはできないと言われる。
また他の動物とは違い、人間は、苦もあり、楽もあるので、その苦楽を通して幸福について考える機会と考える余裕が与えられているからだとも説かれる。
「幸福」とか「不幸」というものには、決まった固有の相(すがた)というものはなく、それは要するに心の受け取り方によるもの。
安心とは、心を一つのところに安定させて揺り動かさないこと、心の平安を得て、動ずることがないことを指す。
安心を得るためには、仏教だったら、戒律を授かってそれをよく守り、坐禅やお写経などをして、自分の心のあり方を深く洞察するのが修行なんでしょうけど、私たちは、お坊さんでもないから、そんな修行はできませんよね。
けれどせめて、喩え話しのように、人として生まれるこの幸運をよく噛みしめ、幸・不幸に関係なく、生きている上で起る出来ごとだと感謝しながら、毎日の日常生活を強く生き抜いていく人生観を持ちたいものです。
『雨にも負けず、風にも負けず』
大きな樹木のように…
にほんブログ村








