救急車の中で、ぐったりと意識をうしなった彼女。
彼、と呼ぶべきなのか、今はどういう状態なのかわからない。
救急隊員の方々が、頬を叩いたりするのに僅かに顔を顰めはするものの、
意識を取り戻す様子は全く見られない。
手首の傷にも応急処置らしきものが行われているようだが、
情けないことにそれを直視することができずに、私は自分の爪先ばかりを見つめていたような気がする。
「ちょっとお話を聞かせてもらってもいいかな?」
救急隊員が、私に問いかけて来た。
この女性は一体何があってこうなったのか、
彼女とあなたはどういう関係なのか、この人は何か持病があるのか。
とりあえず前に聞いた事のある彼女の本名を答え、
ネットで知り合った友人だと告げる。
問題は『多重人格らしい』と言うべきかどうかだ。
――多重人格は存在するか。
今尚議論が交わされている問題らしい。
当時は何故か『多重人格ブーム』のような物が来ていて、
テレビでも特集が組まれたりして、注目度の高い病気だった。
私が軽々しくそれを口にしていいものか。
もし自分が昏倒して、その間に自分の病気のことを話されたら、私はあまり嬉しくない。
けれど、もし『そうらしい』と答えなかったことで、この後の彼女への対応がよくないものになってしまったら。
あまりの重責に、私は何も答えられなくなってしまった。
『精神的に不安定な所があるようで、些細な事から口論となり、自ら手首を切りつけた』
詳細には覚えていないが、こんな風に答えたような気がする。
曖昧にしか答えられなかった私を、救急隊員の方は追及せずにいてくれた。
もしかしたら、この対応は無責任だったのかもしれない。
けれど私は、彼女のことをあまりに知らなかった。
本当に、名前と病状以外に何も知らなかったのだ。
『もっとしっかり彼女と向き合っていれば』
何故だかその時、そんなことばかりを考えていたのを覚えている。
救急車は、なかなか病院に着かなかった。
受け入れてくれる病院が見つからないらしい。
その時の私はとても焦っていた。
自分の言動によって、人一人が自らを傷つけたのだ。
責任を持って、彼女を病院まで送り届けなければ。
そう思ってはいたけれど、私が出来ることは何もなくて、
救急車の隅で邪魔にならないように座っていることしか出来なかった。
ようやく受け入れ先の病院が決まって救急車が動き出した時には、
情けないことに私まで疲れ切ってしまっていた。
病院に着き、彼女が処置室に運ばれて行く。
私はそれを見送って、病院の廊下にある長椅子に座った。
その間私は、先ほどの会話を何度も思い返していた。
「貴方も僕のことを邪魔だって言うんだね」
「そういう態度も不愉快だよ。貴方はどうして僕を傷付けようとするの!!」
「お前も僕を否定するんだな!もういい、こんな穢れた世界には居たくない!!」
今思えば、うっかり笑ってしまいそうな言葉だ。けれど当時の私は、本当に必死だった。
あんなにも『トワくん』を追い詰めてしまった、その原因は自分にある。
なのに何度考えても、何がそんなに彼を追い詰めてしまったのかがわからない。
目の前で人が、自らを傷つけた。その体験は、当時の私から冷静な判断力を奪っていた。
彼女は今点滴を受けていると、看護師さんが教えてくれた。
処置室で付き添うのは邪魔になるだろうと思い、私は廊下で待つことにした。
どれ位の時間が経っただろうか、こちらに向かって早足に歩いて来る足音が聞こえた。
品の良い中年の女性で、面差しはどこか彼女に似ている。
女性は看護師さんと何事かを話し、処置室へ入って行った。
彼女のお母さんだろうか。だとしたら、謝らなければ。
女性が廊下へ戻って来た時、私は咄嗟に立ち上がっていた。
「す……」みません、と最後まで言えなかった。女性が私の頬を張り飛ばしたからだ。