わたしは横浜×福島で育ちました。
わたしの母は福島出身で、今も祖父母と叔父叔母、従姉妹夫婦とその子供2人の4世代が田舎に住んでいます。
両親が自営業で一人っ子のわたしは、小さい頃から夏休みや冬休みになると田舎に預けられ、山の中を犬と迷子になったり、田んぼの水蛇に石を投げたり(ごめんなさい)、山から流れ出る清水を飲みに行ったり、トンボにヒモつけて遊んだり(これもごめんなさい)、裏山でそりをしたり、畑で野菜を採ったり…自然の中で悠々と遊んでいました。
その時の記憶や経験は、今のわたしに大きな影響を及ぼしています。
福島には大事なものを育ててもらった恩がある。
勝手にそう思っています。
4年前、当時わたしは客船の飛鳥2で働いていましたが、震災の日はちょうど休暇中で、横浜の実家にいました。
幸い、わたしの田舎は福島のなかでも山側のほうなので、震災による津波や倒壊などの被害はなく、家も無事でした。
近所には少し崩れてしまった家もあったようです。
そこで一安心していたら、その頃宮城出身の仲が良かった同期が津波に飲まれていました。
彼女は避難場所に指定されていた近所の小学校の体育館におばあさんと逃げ込みましたが、そこも津波に襲われ、必死に柱に捕まった彼女と繋いだ手は引き剥がされ、彼女の目の前でおばあさんは流されていきました。
2日後、おばあさんは校庭から見つかりました。
そしてずっと海辺の民宿で働いていたお母さんが行方不明で、携帯の充電もろくに出来ない避難生活の彼女の代わりにわたしは初めてツイッターアカウントを作り、捜索用の掲示板に記事を載せ、何か手がかりはないかととにかくネットで情報を探しまくりました。
あの時は数日間、眠れなかった。
結局…2週間経って自衛隊の方が見つけて運んでくれた体育館に並べられたご遺体の列の中から、お母さんは見つかりました。
一瞬で大切な家族2人と家の全てを失ってしまった友人を前に、ただ自分の無力さを呪いました。
お父さんとお兄さん、妹さんは仕事で地元を離れていたので無事でした。
せめてもの救いでした。
その後、少し落ち着いてから彼女に会った時、アルバムを見せてもらいました。
震災の爪痕の写真の数々。
彼女が育った家は土台だけがかろうじて見える状態。
家の隣の折れて朽ちた木の枝に、妹さんの洋服がズタボロになって引っかかっていた。
一緒に泣きました。
少しして、彼女は船を辞めていきました。
海を見るのが辛い、と言って。
今は彼女とは一年に一度会って近況報告をするくらいだけど、やっぱり震災のことを聞くと真っ先に彼女を思い出します。
あれから4年経った3.11、今日は地元に戻っているのかな。
もう少ししたら連絡を取ってみよう。
お互い積もる話があるはず。
いつか、彼女の育った地へ。
そして今年は久しく行っていない福島にも足を運ぼう。
忙しかろうがなんだろうが、今出来ることはあるはず。
まだやりたい活動もある。
少しずつでも想いを形にしていきます。
福島に、東北に恩を返すために。
Shiho