私は勤めていたパート先を失うと、てか自分から辞めたのだけど、とてもあせります。

すぐに次のパート先を見つけようと手当たり次第に応募してしまいます。

 

今でも今のパート先を辞めた時は、そうなると思います。

 

なんであんなにあせっていたのか?あせるのか?

私は、パート先を辞めてしまうと、とたんに居場所を無くしてしまったような、いてもたってもいられない気持になるからです。

あせってあせって不安で不安で一日も過ごせないような気持になってしまうからです。

 

 

それにひきかえ私の友人は、パート先が営業を止めてしまい、突然ほんとにパート先が消滅してしまったのですが、あれから一年半、まだじっくりと次を探し続けています。

長年働いてきた場所だったので、ショックでしばらく動けなかったのだと思います、それもあると思います。

それでも働く気持ちがあるのに、一年半以上じっくり探していられるのは、やっぱり気持ちが落ち着いていられるからだなあと。

 

私はなんでこんなにあせるんだろう?

頭の中ではちゃんとわかっているんです。

居場所はちゃんとあります。なのにこうなってしまうんです。

 

私は、以前コロナ騒動のころ、他人事なのにすごくすごくせつなくて、いてもたってもいられない気持ちになっていました。

それは居場所を失うという事についてです。

 

飲食店の営業が制限された時、そこで働いていた人はどんな気持ちだろう?シフトを減らされたり、自宅待機を言われたりして、どんな気持ちだろう?

そこで働くことが、どんなにその人にとって大切なことであったか。

そこでの人間関係がどんなに大切であったか。

今日もそこに行くということが、どんなに大切なことであったか。

 

そう感じてしまっていたからです。

 

そしてそこに集まるお客さんもどんな気持ちだろう?と。

そのお客さんにとってそこに行くことがどんなに気持ちの支えになっていただろう?とか、

そこで知り合った人たちや、そこの従業員の人たちや、そんな場所がどんなに大切な場所だったのだろう?とか。

 

勝手に感じてしまい、テレビのニュースを見てはせつない気持ちになっていました。

同時に、世間の人はなぜそこをもっと心配しないのだろう、そこを言わないのだろうと、不思議で仕方がありませんでした。

 

テレビではおうち時間とさかんに言っていたけれど、おうち時間?

おうち時間なんていう言葉の上に、心を落ち着けて安定していられる人ばかりじゃないよと、反感を感じていました。

おうち時間という言葉で、逆にわけのわからない不安をかきたてられていました。

 

 

居場所とか所属場所って、実際にそれが有るか無いかより、居場所感とか所属感とか感覚的なものなんだと思います。

だってその時も私には実際に場所はあったのですから。ありがたいことに有ったのです。

 

居場所感、所属感、その感覚がとても大切なものなんだと思います。

その感覚がおかしくなっていると、たとえばパート先でも、それを一刻も早く見つけなきゃみたいな気持ちになってしまうんだと思いました。