猛暑が続いています。今日も元気で主にお会いするために教会に行かれましたか?

 

神さまのお言葉は一般的に市民が聞いて喜ばしものではありません。しかし、この厳しい神さまのお言葉こそ、人生をハッピーに生きるために欠かすことのない宝物なのです。

 

その宝物を探し求められる人こそ、これからの厳しい人生をいつも平安と喜びに満たされた祝地で安定した生活を送る事が出来ますよ。これは神さまの変わらない真実の約束のお言葉だからです。

 

では今日も言うわよ!

 

世界に広がるうだるような熱波。各地で様々な声が聞こえてきます。イタリア・ローマは37℃。観光客もうんざり「まるでオーブンの中でドライヤー」また、スペイン人は「地獄のような暑さよ」41℃を観測したルーマニア。シベリアでは31℃まで上昇するかな?もう予測不能です。

 

アメリカは大型ハリケーンの件数は数え切れないぐらい多いです。今回の大型ハリケンの被災地では、大規模停電が続き、熱波も到来するなか思わぬ事態が発生、市民たちから復旧作業員に怒りがぶっつけられていた。ヒューストンの市長がテレビ出演で「市民の皆さん、復旧作業員は私たちの友人です。彼らを脅さないで下さい」

 

何と復旧作業員に暴行や脅迫が相次いでいたのですから、猛暑が引き起こしている狂気の沙汰です。

 

今年、夏と冬に大きな流行を繰り返してきた新型コロナウイルスが夏の流行期に入り、人の往来が増える夏本番を前に第11波が始まり、新たな変異株「KP・3」が世界的に感染の主流へと置き換わっている。KP・3は、冬に流行したオミクロン株の変異株「JN・1」から派生したウイルス感染力強い。何時までコロナの変異株が確変を続けるのだろうか?また息苦しいマスク生活をしなければならないのかな?

マスクにコロナを塞ぐ機能が確かにあるなら・・・感染はかなり減っただろうに・・

 

イザヤ書41:10

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』

 

主は聖書にて「恐れるな」「恐れてはならない」と何度も何度もくり返されます。

 

なぜでしょうか?それは、私たちがすぐに恐れてしまう肉の性質を持っているからです。目の前の問題に比して自分を見るなら、自分が余りにも小さく、弱見えるからです。しかし、どんなそびえ立つ問題よりも神様のちからは偉大で強力なのです。神にとってむつかしすぎる問題は何一つありません。だから恐れる必要はありません。

 

しかし、問題は私たちにあります。それは、問題が起こると決まって、神様から目を離してしまうところにあります。主は今ここにおられます。そして、天の軍勢も私たちと共におられるのです。だから何も恐れる必要はないのです。

 

私たちはみな、様々な「恐れ」に囚われて生きています。私も恐れの気持ちに駆り立てられながら、今に至るまで一生懸命努力し、勉強し、仕事もしてきました。人の目から見たら私は強そうに見えるようです。しかし、私には常に自分の内側では凄まじい霊的戦いがあり、何度も失望感や挫折感に襲われているのです。

 

そんな私に、天地万物の創造主である神さまは「たじろぐな。わたしがあなたの神だから……」と毎回、恐れや失望や悲壮感で立ち上がる事が出来ない時に、神様は同じ言葉で語りかけてくださるのです。

 

第一に「あなたは、わたしのしもべ。わたしは、あなたを選んで捨てなかった」41章8-20節では、無力なイスラエルに対する慰めが語られています。8節の始まりには、「お前」という神からの呼びかけが記され、そして主は彼らを、「わたしのしもべ」「わたしが選んだ」「わたしの愛するアブラハムのすえ」と繰り返し呼びかけておられます。

 

そこには、宇宙万物の創造主である神さまが、イスラエルをかけがえのないご自分の瞳のように、宝物のように見て、世の権力者、あらゆる敵から守るという、主の熱心の思いが込められています。彼らが「地の果て」(41:9)に追い散らされていても、神が彼らをとらえ、約束の地に連れ戻してくださるのです。

 

「わたしはあなたを選んで捨てなかった」という言葉でわかります。このような神の一方的な愛を前提として41:10「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」人間的なものにより頼むのではなく、天地万物の創造主により頼む時「わたしのしもべ」と呼ばれ事に喜びを見出す事が出来ます。

 

私たちが神の救いにあずかることができるのは、私たちの側に罪の自覚があるからでも、また正義があるからでもなく、神の義の右の手が一方的に私たちに差し伸べられた事により救いが始まるのです。

 

つまり、救いの主導権は人間にあるのではなく、神側にあると言う事です。そのことが先の「わたしはあなたを選んで、捨てなかった」という語りかけになり41:11「見よ。あなたに対していきりたつ者はみな恥を見、はずかしめられ、争う者たちは、無いもののようになって滅びる」神がイスラエルの味方になってくださるという意味です。

 

私たちの暗唱聖句です。ローマ8:31でパウロも「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」と宣言しています。その上で、主は41:13、14「わたしは主(ヤハウェ)、あなたの神。あなたの右の手を堅く握り、そして言う、『恐れるな。わたしが、あなたを助ける。恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々よ。わたしが、あなたを助ける』と言われます。

 

イスラエルは当時の世界から見たら「虫けら」のような存在でしたが、主が彼らを選び、彼らの味方となってくださいました。その上で、主ご自身が彼らをとらえてくださるので、彼らは周囲の大国をも圧倒する事が出来るようになったのです。

 

この事が比喩的に15,16節で述べられます。「鋭い・・・打穀機」とは、神の民が敵を圧倒する様子を描いたものです。そしてこの部分の最後に、8節の「お前」という呼びかけから始まった神の慰めのことばが、41:16「あなたは、主によって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る」この言葉は無力さに絶望している民にとっての何より希望の言葉です。

 

イスラエルの民は、自業自得の罪で神の「のろい」の下に置かれました。

 

そこでは働いた労苦の実を自分で享受できないばかりか、ありとあらゆる災いに襲われ、敵に怯えながら生きていました。「贖う」とは、たとえば、借金が返せなくなって自分の身を奴隷に売らざるを得なくなった場合に、兄弟が彼をレビ25:48にある「買い戻」し、再び自由人に復帰できるというような救いを意味します

 

そのような状態から、生きることを喜ぶことができる自由人の状態へ回復されるという約束の言葉・・主は「わたしがあなたを贖った」と預言されています。それは、「のろい」から「祝福」へという百八十度の立場の変化する事を意味します。

 

それがなされたのは、イスラエルの民が悔い改めたからという以前に、父祖ヤコブに由来する民が、神ご自身によって「創造され」「形造られた」という神の選びに基づくものです

 

ヤコブはそれに値する人間ではなく、父や兄を騙すペテン師で卑怯でずる賢い性格の持ち主でしたが、主ご自身が、彼の生まれる前から、彼を兄のエサウの上に立つ者と一方的に計画されたのです。また、神は、ヤコブの母の故郷への旅行を守り、豊かな財産を与え、約束の地カナンに戻る途中のヤボクの渡しで、彼にご自身を現し、イスラエルという新しい名前を与えてくださいました。

 

そして、主がイスラエルを贖ったということが「あなたの名をわたしは呼んだ」と言い換えられます。そして、主に贖われた結果の祝福に満ちた歩みのことが、43:2「あなたが水の中を過ぎるときも、わたしは、あなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」

 

この選びによる創造は、ダビデが詩篇22:10「生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいたときから、あなたは私の神です」と告白しています。私たちキリスト者はすべて、キリストの十字架の血潮によってサタンの支配下から、奴隷から十字架の血潮によって贖い出されたのです。

 

ですから、この「ヤコブよ、イスラエルよ」という部分を自分の名前に置き換えて聖書を読むなら、神の絶対的な守りを私たちが味わう事が出来ます。確かに、私たちはこの地で様々な災いに会います。しかし、その災いは決して、私たちに与えられた「永遠のいのち」を損なう力にはなりません。

 

そのことをパウロはコロサイ3:3,4、「あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。私たちのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます」と断言しました。

 

「永遠のいのち」のすばらしさは、時とともに明らかにされてゆきます。

 

信仰生活はその恵みの豊かさをより深く味わうプロセスです。そして、主はイスラエルに対する保障を、43:3「わたしは、主、あなたの神、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主だから」と言われます。ですから、私たちは地上のいかなる権力をも恐れる必要がありません。

 

それは43:4「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしは、あなたを愛している」と言われているからです。「イスラエルの聖なる者」とは、イスラエルにとって主は、いかなる比較も超えた、人のいかなる想像も及ばない圧倒的な神であるということを表します。しっかりと信仰によって歩まれる兄弟姉妹でありますように主の御名により祝福致します。アーメン。